私がデッサンを一からやり直そうと思うきっかけとなったデッサンは、フランスの画家オノレ・ドーミエだったのかテオドール・ジュリコーだったのか
今となっては忘れてしまったけど、それはミミズが這ったような線がいくつも重なった、一見落書きのようなデッサンでした。
それを見た瞬間「これこそ本物のデッサンだ!」と心の中で叫びました。
そのデッサンは他のどんなデッサンよりも、それそのものを表していました。
線だけで対象を捉えきっていたのです。
そのデッサンに出会うまでに私は一つの疑問を持っていました。
それは「陰影に何時間もかけたり、完成させるのに何日もかけて描くのが、はたして本当にデッサンをしていることになるのだろうか?」
というものでした。
私の考えるデッサンとは、モチーフを捉えることです。
線なら線で、色なら色で、その他のものならその他のものでモチーフを捉え
何かに描き表すという行為が『デッサンをする』という行為です。
そしてそのデッサンは絵を描くために必要な力をやしなうものでなければいけません。
陰影を一生懸命に鉛筆や木炭などで描いているとき、ほとんどの場合その陰影を持った本体ではなく、
陰影そのものを表現していることになります。
例えばコップをデッサンするとき、コップそのものを捉えるのではなく、多くの人がコップの陰影を捉えるのに必死になっています。
あたかも陰影こそがコップそのものであるかのように・・・
「もしかしたらそうなのかもしれない」
と、当時考えた私は、一般に教える陰影の付け方を無視してデッサンしてみました。
ときには光と影を逆転させたりもして・・・
そうして描かれたデッサンでも対象は失われることはなく、表現できるということを知ったのです。
つまり、目に見える陰影が対象そのものではないとわかったのです。
ではなぜ多くの人があのような陰影に時間をかけるデッサンばかりするのか?(陰影の表現を目的としているのなら話は別です)
私の出した答えは「その方が、人に見せたときに見栄えがいいから」というものでした。
「陰影を描くのにだらだらと時間を費やして描くデッサンは他人に見せるための出来栄えとして左右されるだけで、
本来絵描きにとって必要なデッサンではないのでは?
集中力の切れたデッサンを何枚描こうが、あまりデッサン力は上がらない・・・・・」
というようなことを考えているときに出会ったのが、上に記述した線だけのデッサンでした。
他の人にとってはそれはデッサンとは呼ばないかもしれませんが、私にはデッサンでした。
そしてこのデッサンの域を目指そうと思ったのです。
dessin#01から#05はデッサンをやり直す前のデッサンです。
デッサンを一からやり直すにあたって、以下の条件を自分自身で課しました。
1、デッサンは誰にも見せない。
2、描いた線は消さない。
3、陰影はつけない。
1は、まず人に見せないことから、見せるために取り繕うことがなくなり、
無用な線の蛇足を防ぐのと、例え途中でも集中力が切れたと自分でわかったときにはそこでペンを止めるためです。
私はパリにいたときに描いたデッサンの9割5部以上を誰に見せることもなく捨てました。
2は、集中力を高めるのと生きた線を描くためです。失敗したと思ったらすぐに次のページに描くか、ずらして描きました。
そうしているうちに、自信をもって線を描けるようになっていったのです。
そして、見えたまま正確に描くのがデッサンだというそれまでの固定観念がいかに誤ったことだったかという事を、自分のデッサンから学ぶことができました。
昔自分が描いていたデッサンは、擬似絵にしか過ぎないことを改めて知ったのです。
3は、線だけでどれほどのことが表現できるのかを突き詰めてみようと考えたからです。
当時私が目指していた線がどういうものだったのか?
当時私がノートに書き残した文章で残っていたので、その一部をここに抜粋します。
「そこに線があるのなら、その線は画家が描いた線であってはいけない。線に描かされた線でなければ本物の絵にはならない。
線に描かせられた線は、それが紙の上に描かれていることを感じさせない。
その線はずっと昔からあり、遠く先まで続いていて、 たまたまいま目の前に現われた。
どこからともなく忽然と現れ、またどこかへと自然に消えていく。そんなことを感じさせてくれる。
そうでない線は、いやが上にも紙に描かれているということを意識させられる。
「これは絵です」と線が教えてくる。
感情を言葉で表すのは難しい。言葉ではなく身体だけで表現するのはさらに難しい。それを線で描くのはもっと難しい。
線に使われるようになるのはそれより難しい。」
デッサン力を上げるためにしたことはこれだけではなく、他にもいろんな事を取り入れてやりました。
次の言葉は、ロダンがまだ彫刻家ではなく、彫り物職人の修行をしていたときに、ある職人がロダンに言った言葉です。
「形を広さで見てはいけない、深さで見るんだ。ものの表面はある量の一端として見ることだ。
君の方に向かっている多少とも広がりを持つ一つの尖端として見るんだ」
この言葉に接したとき、これこそデッサンのためにある言葉だと思いました。
そして、ある形を広さではなく、深さで見るためにあることを始めました。
これについては、またいずれ機会があるときに・・・。
実際私は、自分の目指す域まで達したか?というと、残念ながらそこまではいっていません。
その前に行き詰ってしまったのです。
あるとき私は、どんなものでも下書きなしで一本の線で描き表せれることを得意になっている自分に気付きました。
それを知った瞬間、自分は行き詰っていることを悟りました。
自分が目指すレベルまで到達していないことを知っていながら、では次になにをやればいいのかわからなかったのです。
私がそれまでやってきたことが間違ってはいないことは、dessin#10 を見ていただければわかると思います。
これは3年以上ぶりに陰影をつけたものです。
それまでは全く陰影をつけていなかったのに、なんの違和感もなく、このような陰影を描くことが出来ました。
これは45分ぐらいで描いたもので、他の#6から#9は1分から15分くらいの間に描いたものです。
しかし、#10にしても満足はしませんでした。
ここでは線と陰影が喧嘩をしていて、うまく溶け合っていないからです。
自分が目指すレベルに達するためには、一度線から離れなければと考えた時に頭に浮かんだのは、
次は面でデッサンをするということでした。
そこで選んだ画材が、水墨画です。
水墨画にはいろんな流派があり、いろんな描き方がありますが、
私が思う水墨画の一番の魅力は、面で「もの」を表現することにあると思っています。
それと、余白の使い方です。
面で「もの」を表現するという言い方にピンとこない方もいると思いますが、例えば木の幹を描くとき
線で描く場合は2本線を使って幹を表しますが、水墨の場合、筆の穂先から筆の腹までを紙に押し当てて一筆で描きます。
これが私の言う線で表すのと面で表すのとの違いです。
日本に帰って水墨画をやりたいという思いが強くなり、日本に帰国。
すぐに独学で水墨画を始めました。
が、いろいろな事情により、帰国して3ヵ月後に日本を旅することになりました。
当初は水墨画で描きながら回るつもりでしたが、敏感な画仙紙、筆、墨は野外で描くには適していなく、途中で水彩画に変更しました。
私の予定では、面のデッサンがある程度いってからその後に、色に移る予定でしたが、
先に色をやることになってしまいました。
でも、水彩画は水墨画と全く関わりがないわけではなく、お互いに関係していることを知りました。
旅が終わった今、私の中には自然から教わった膨大な色彩があります。
これを活かすためにも面のデッサンの続きを一刻も早くやらなければと思っています。
最後に、線のデッサンの修行中、たくさんのアーティストのデッサンに接する機会がありました。
その中には、画家だけでなく彫刻家もたくさんいました。
またその逆に、画家の彫刻も見てきました。
そして思ったのが、デッサンで表現できないものは、たとえ色彩を使おうが、粘土や木、石・・・その他の量を使おうが表現できないということでしす。
デッサンにそのアーティストの表現が全て出ているのです。
絵の形態や色彩を変えようが、彫刻の形体や素材を変えようが、その人のデッサンで表現されているもの以上のものは表現されないということです。
デッサンを見ればそのアーティストの作品がだいたいわかってしまいます。
それほどまでにデッサンは重要だということを私は学びました。
そして偉大な画家は、歳を取れば取るぼどデッサン力が増していました。
自分もそういう画家を目指したいと思っています。
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