考えるとは      目次へ



 形而上学とは思惟することによって或る一つの推測を行うことである。それは推測であって事実ではない。各分野の科学にとって形而上学が必要であり、かつ邪魔なのはこのためである。そして思惟すなわち考えるということは、物事を知るということではない。

では考えるとはどういうことなのか? 

 

 私達が何かについて考えるということは、例えばある目的地があり、そこへ向かって思考を進めていくというようなことである。その目的地とは「知らないことを知る」であり、それを目指して考えるのである。しかし考えたからといって、考えることによって何かしらの答えが出たからといって、私たちは以前に「知らなかった」ものを「知った」ことになるのだろうか?それは依然として「知らない」ものに変わりはないのではないだろうか?では考えることによって私たちは一体何を得るのか?それは一つの「推測」である。

 また私たちは考える為にいろいろな「もの」を使う。例えば「四次元とは何か」を考えるとき、時間や空間、その他いろいろな「もの」を使って考える。しかし、その「時間」や「空間」が何であるか私たちは知っているのだろうか?その「時間」や「空間」を考えるときもやはり同じことが言える。
知っていると思い込んでいる「知らないもの」で知らないことについて考えることと、知らないことについて想像することとどう違うというのだろう?
 それから、どんな物知りでもやはり知らないことはある。それは誰でも気付くが、自分の知っていることに関しても 知らないことがあるということにはなかなか気付かないものである。そういう意味での「自分の知らないこと」に気付くためには、そういうものがあると想像する想像力が必要になる。これがない、または足りないとそれに気付くことはまずないだろう。

 そして最後に私達が現実だと思っていることの中にもその存在があやふやなものはたくさんある。それに気付くためにも想像力は欠かせないし、そういうものがあるのなら必ずしも現実を離れて想像すること、つまり空想によって得られたものが非現実的なものとは言えない。どこにどんな可能性があるかは分からない。だからその「可能性があるかもしれない」と想像する力を私は重んじる。  

 私はこの中でいろいろなことについて想像し、空想しているが、その中のどれ一つをとっても「何なにはこうである」と断言できるものはなく(表現上そう書いてあっても)、ただ「こうではないだろうか」という一つの推測であることをお忘れなく。
 なお、命題によって細かく分かれてはいるが、前に考察した事柄に関しては繰り返し考察せずに、そのままそれを利用していることが多々あるので順番に読むことを勧めます。「読む」と表現したけれども、私の望むところは一緒に想像してもらうことです。