時間について                              目次 


 いままでにも時間について漠然と考えたことがあるが、結論にまで辿りつけなかった。その時は確か空間と時間の関係から出発した。そして時間がある場合には空間はあるが、空間があるからといって必ずしも時間があるとは限らないという考えに至った。それは以下のような思考による。

 まず一つの、それ以上分割することの出来ない物質があるところを想像する。そしてその世界には「それ」しか存在しないこととする。次に「それ」が全く変化しない場合と変化した場合とを考えてみる。変化とは、変形、回転、移動などありとあらゆる変化を含む。ここで注意しなければいけないことは
  1、「それ」を思い浮かべるとき、「それ」が存在する世界は他の世界と全く遮断されているということ。
  2、「それ」を観測しているのは「それ」を思い浮かべている自分ではなく「存在なき観測者」だということ。
  3、「それ」と「存在なき観測者」との間にはいかなる空間もあってはならないという三点。

 さて「それ」がある世界は「それ」だけかもしれないし、「それ」の外側にもあるか もしれない。いずれにせよ「それ」が存在するとすれば空間(広がり)は存在することになる。その世界が「それ」だけだとしても「それ」が占めるところに空間が存在するからだ。(この空間という言葉に関して私がここで使った意味の上では、それが2次元だろうが3次元、またはそれ以上の多次元だろうが、ユークリッドでも非ユークリッドでもその他でもかまわない。要するにその空間の性質には左右されないという意味の上での言葉です)
 空間については「それ」が存在する時点で存在する。では時間の方はといえばこの時点では何とも言えない。そこで次に「それ」が変化した場合のことを考えてみる。「それ」のもとの状態をAとし、例えばBに変形した場合、AからBに変化したこの間をAーB時間と表すことが出来る。またそれの静止位置をAとし、例えば位置Bへ移動した場合、AからBへ変化したこの間は距離でも表せられるし、時間でも表せられる。また速度でも表すことが出来る。(厳密には変形も「それ」の各部分の移動によるものだから後の例に含まれる)このように変化があれば自然と時間は現れてくる。  

 ところで「それ」そのものもない場合はどうなるだろうか?空間(広がり)はあるかもしれないがそれを知る術がない。存在なき観測者を以ってしても。想像することは一見容易に思えるが、一歩進んで思考してみて本当に何も物質がないのに空間(広がり)が見いだせるだろうか?存在なき観測者はもちろん体積を持ち合わせてはいない。物質が存在した時にはそこに空間を見いだすことが出来るが、はたしてその空間は以前からあったものなのか、物質と同時に生まれたのかは区別がつかない。この場合物質が存在する以前からもともと空間はあったとも言えるし、なかったとも言える。

 では次にこのような状況で時間について考えてみる。一体どうやってこのような状況で時間を見いだすことが出来るだろうか?物質は何もない。従って普段私たちがあてにしている時計などももちろんない。私たちの世界の時間を以ってこの世界を観てはいけない。というのも私たちの世界の時間を持ち込むということは、私たちの世界とこの世界が繋がってしまうことを意味するから。そうなればたちまち空間が現れることになる。いま問題にしている世界は空間があるのか、ないのかさえわからない世界だから。
 では、空間があるとした場合、つまり物質がある場合を考えてみよう。この場合この物質はあらゆる「変化」をしないものとする。先に注意したように「それ」と「存在なき観測者」との間にはいかなる空間も在ってはならないし、「それ」がある世界は他の世界と遮断されてなければならないから、私達の世界の時間を以ってこの世界をも観てはいけない。それというのも、その世界が他の世界と繋がってしまうと「それ」だけしか存在しないということが不可能になるから。(だからこのような世界は想像の中でしか存在し得ない。このような世界が実際にあったとしても、私達がそれを確認することは出来ない。出来たが最後、その世界はもうそのような世界ではなくなってしまっているのだから。)従ってこのような場合も時間を見いだすことは出来ない。だからといってまだ時間が存在しないとはいえない。  

 ここまで考えたとき、自分の思考の中で引っかかる部分があった。それはAからBへ移動したという変化を距離、時間、速度で表せるというところだ。Aから数メートル離れたBへ変化(移動)したとも、Aから数秒かかってBへ変化したとも、Aから数メートル毎秒の速さでBへ変化したとも表せられるということは、時間というものは距離や速度と同じように物質の変化の状態を表す道具なのではないのだろうか?空間のようにそれによって物質が在るところのものではなく、物質が在ることによって生じるところのものが時間なのではないのだろうか?(厳密に言い変えると、物質が変化することによって生じるところのものが時間、速度、距離となる。そうすると物質が在ることによって生じるものは空間と言えるかもしれない。空間については別の機会に考える)このように考えると、もはや時間を空間と同等には扱えなくなる。物質が存在した時点で存在するのが空間なのに対し、その物質が変化してはじめて生じるのが時間ということになるなら、時間よりも空間の方が先に存在することになるから。結果、空間がなければ時間も無い。空間があっても時間があるとは限らない。さらに、時間があればそこには空間が存在するという結論に導かれる。  
 以上の考察は以前にしたものであるが、時間と空間の相互関係についての考察であって時間そのものの考察ではない。


 さて次にもう一度冷静に物質の変化の状態を表す三つの道具を見てみよう。まず「距離」だが、先に物質の変化の状態を表す道具として「距離」「時間」と並べたが、これは物質が静止した状態でも表すことができる。例えば先の考察の中で出てきた「それ」が、空間(広がり)を作り出すとき単位はともかく距離をそこに見いだすことが出来る。この点で「時間」「速度」よりも先に存在することになる。(ある広がりを持った物質が存在すればそこに自ずから空間が生じる。その空間が例えば3次元なら三方向の距離によって表すことが出来る。だから物質が変化することによって生じるところのものよりも先に生じるということになる)

 次に「それ」がAからBに変化した場合だが、「時間」は「速度」より先に存在するのだろうか?速度を数字で表そうとすれば確かに時間は不可欠だが、その(計算に使われる)ことによって私達は時間に対する概念を間違って持ってしまったのではないだろうか?時々私たちはそれとは知らずにそれを求めている場合がある。それとは知らずにそれを見ている場合がある。例えば私たちは一日に24時間という時間単位を与えた。その一日は一年に365日という時間単位を与えたときの1/365であり、その1年は・・・・。これを速度の方から見ると、一日とはつまり地球が約一回自転する速さ。一年とは約一周公転する速さである。それにそれぞれ自転については24時間という時間数字が与えられ、一日という時間概念の言葉が与えられた。公転については365日という時間数字が与えられ、一年という時間概念の言葉が与えられた。もちろんこれらの数字そのものはでたらめに付けられたわけではない。が、ここで肝心なのは数字でも、数字の由来でもなく、もともとは「或る速さ」だったものを「時間」というものに置き換えられて表現されているといゆうことである。何故そう言えるのか?次のように考えてみればわかる。自転もしくは公転の「速さ」が変われば時間はどうなるか?当然表される時間数字も変わる。(一日24時間という数字を変えないようにしても、一秒の間隔が変わる。)では時間の方を変えた場合地球の自転、公転の速さは変わるだろうか?数字の上では確かに変わるだろう(その単位は時間の数字によってもたらされているから)が、実際の速さには変化がないはず。結果、速度が変われば時間も変わるが、時間を変えても数字ではない実際の速さは変わらないということになる。だから速度の方が時間に対して優位(その存在より先に存在し、その存在に対して影響力を持つという意味)であると、結論出来る。  

 ここまでの考察から時間とは速さというものを数字で表したいが為に生まれた副産物と言えるかもしれない。さらに突き詰めて考えてみよう・・・・私達が時間と呼んでいるものは一体何か?一秒一秒の積み重ねである。その一秒一秒とは何か?他でもない一秒一秒の間隔の速度に他ならない。アナログ時計なら秒針が1から2へ変化(移動)する速度であるし、デジタル時計なら秒数字が1から2へ変化する速度である。砂時計は砂が移動する速度である。・・・ここまでくるともはや時間への概念は変わってくる。時間・・・そんなものは存在せず、数字の中だけに現れる。では速さ(便宜上数字で表されたものを速度とし、数字に表わされていないものを速さと区別する)は存在するだろうか?見える(感知できる)ことが存在することに繋がるかどうかわからないが、速さは見る(感知する)ことはできる。私たちは自動車が走るのを見る。その横を自転車が走るのを見る。さらにその横を人が歩くのを見る。そして人より自転車が速く、自転車より車が速く走るのを見て(感知して)いる。私たちは車、自転車、人が移動するのを見ると同時にそれらの速さを見て(感知して)いる。その見えている速さがどのように速いかを知るために、数字として表したいときにはじめて時間が必要となり生まれる。面白いことにこの数字で表されたものは単独ではなにも意味を成さない。他のものと比べてはじめて意味を成す。これは速度そのもの、いや、物質の変化を認知すること、そのことの性質に起因するのではないだろうか?これについてはまた別な機会に考えることにする。

 それにしても何故同じように物質の変化の状態を表す道具なのに距離、速度よりも時間だけが特別扱いなのかと訝しく思える。(少なくとも私にはそう思える)思うに計算上、速度は距離と時間がなければ出てこないものであるから、必然と時間、距離の方が速度よりもより重要と思われがちになる。そして距離というのは空間に近く目で感知することが出来るが、時間の方は時計として目に見えたように見せてはいるが、時間そのものは見る(感知)ことはできないために神秘性を帯びていった。さらに未来や過去などの概念が時間と結びついて、より一層神秘性を増していったのだろう。もちろんこんな簡単なことだけが理由ではないだろうが、少なくとも要因の一つではあるだろう。


 さてここまでの文面で「同時」という言葉が出てきた。時間がないとすれば「同時」という性質はどう説明するのか?例えば(例1)二つの物質が同時に同じ空間を占めることは出来ないが、時間がずれれば可能になる。(例2)同時に二人のランナーが走り出せばどちらが速いか見て比べられるが、時間がずれればどちらがより速いか分からなくなる。といったような場合,やはり時間があるかのように思える。が、よく考えてみれば簡単に時間なしで説明がつく。まず(例1)、もし同じ空間を二つの物質が占めればそれはもはや二つの物質ではなく、二つの物質が融合してできた一つの新しい物質である。そうでないからこそ「二つの物質」なのである。そして「時間がずれれば可能」という「可能」になる為には大事な条件がある。それは先にその空間を占めていた物質がそこからいなくなるということだ。先にあった物質が移動しなければいくら時間がずれても、もう一つの物質はそこを占めることは出来ない。その物質の移動(変化)を時間にすり替えて表現してあるのである。だから「同時」という言葉を使わずにこれを言い換えれば「ある空間を占めている物質が移動(変化)しない限り他の物質はその空間を占めることは出来ない」となる。(例2)は二つの物質が変化するのを一つの視野に捕らえて、それを「同時」と人が呼んでいるにすぎない。これと似たような錯覚は沢山ある。確かに同時に事が起こるというのは特異なことである。似たような運動を別の二つの物体が、ごく近い空間で行っているとなるとなおのこと。がしかし、そのことに何も意味はない。比べられる、比べられないなどは観測しようとしている人間の概念であり、たまたま人の視野のなかに二つ以上の物質が運動をしているのを捉えられたというにすぎない。それを同時という時間概念にすり替えているのである。これを同時という言葉を使わずに他の言葉で言い換えれば「一回の視野で捉えた二人のランナーは比べられるけど、二回の視野で捉えたランナーは前の記憶を正確に再現できないために比べられない」といったところだろう。

 ところが人間は、二回の視野で捉えたランナー(以後「二つの速さ」と表現する)を比べる方法を見つけ出した。二つの速さに共通する物差しを用意することによってそれを可能にした。その物差しとは言うまでもなく時計という時間である。時間でランナーの速さを計るとはどういうことか?実は二人のランナーを競争させる代わりに、それぞれのランナーを時計(時間)というある一定の速さに定めた速度と競争させているのである。「時間」とは「速さの物差し」とも言えるだろう。


 以上のように今まで考えられてきた時間(私達が時間に対して抱いていた概念)と本当の意味での時間とは大きな隔たりがある。まとめてみると、時間とは物体の変化を表す道具の一つであり、他の道具と交換可能なもので、なにも特別な存在ではない。時間が存在するのは数式の中に限られる。その際の時間とは実は、速度を時間というものに置き代えたものである。私たちはある制限を加えた(一定の速さに定めた)速度を使って速さを計算で求めているということになる。なぜそんなややこしいことをしているのか?それは上の(例2)のように、別々に運動している物体のそれぞれの速さを時計と比べることにより、速さを数字に置き換え、その置き換えられた数字でもってそれぞれの速さを比べるという方法でしか、私達には別々に運動している物体の速さを比べることが出来ないからだろう。
 このように全ての速さに共通する対象速度が時間なのであり、そうでないと意味がないのであるが、人はいつしかこれを「全てのもの(万物)は、共通の時間の中にある」と勘違いしてしまった。みごとに主役と脇役が入れ替わってしまったわけだが、このような万物に共通の時間などはない。しかしこの時間というものを作ったおかげで私たちは別々に運動している物体の速さを比べることができるようになり、それによって私たちは田植えの時期を知り、雨期や乾期、川が氾濫する時期などをあらかじめ予測できるようになったのである。(これらのことによってさらに万物共通の時間概念は形成されていったのだろう)この予測というものが未来という概念を生むことになり、記憶が過去という概念を生むことになった。ちなみにこの予測は予知という概念を生み、これが当たる、当たらないということから占いが生まれたと考えられる。が、いままでの考察から得たことから考えてみて、未来がわかる占いなどはないと言える。なぜなら、占いが意味するところの未来そのものがないのだから。

 従来考えられてきたような時間が存在しないとなるとタイムマシンなどは夢から消されてしまう。今まで漠然と抱いていたSFのような過去や未来はなくなってしまう。あるのは記憶、書物、知識の中の過去、想像の中の未来となる。例えばAからBへ変化した物体をまたAへ戻したとしても、それはやはりAからBへ変化したのと同じようにBからAへ変化したということでしかないので、時間は加算されはするけど減ることはない。同じようにいかなる機械(タイムマシン)を作ろうとも、その機械が動く限り時間は加算されるだけで、決して減少することはない。また、過去には行けないが未来と呼ばれる先へは行けるという浦島太郎のような現象にしたところで、未来へ行ったという表現は当てはまらない。なぜなら過去には戻れないわけだから、他の者にとってそこがさっきまでの現在の続きであるように、浦島にとってもやはりそこがさっきまでの現在の続きでしかない。出会うまでのお互いの速さが違っていただけのことで、出会ってしまえばお互いにとってそこがさっきまでの「いま」の続きである。その場に居合わせている人にとってはその場は過去でも未来でもない。速さそのものには上下左右の方向はなく、前後(未来、過去)もない。  

 私たちの世界とそっくり同じでその進行スピードが違うという世界が存在した場合、過去や未来を見る、あるいは行くという行為と似たような行為をすることは出来るだろうが、それは限りなく似ているというだけであって、私達が通過した過去でもなければ、通過する未来でもない。そこにいる自分そっくりの人間が幸せでも、それを見ている自分は他人のそれを見るのと大差ない。ただいくらか嬉しさが増すだけだ。
 時間のように本来の姿がいつの間にか他の概念にすり替って、まるで別の存在として私たちの間で認識されているものを他にも見る。例えばお金がそうだし、いま使っている言葉もその一つである。これらはまた別の機会に考察する。   
 以上 時間について    

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