脳について −夢とは−
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 ・・・・・人は日常生活においてどれだけ脳を酷使しているか!想像を絶する。(本文中より)・・・・・



脳について

始めに考察文「感覚について」と「存在について」から得た脳に関することをまとめてみる。
1、脳は五官からの情報を処理し、それを感覚にする。
2、人はその感覚に意識を向けることで見たり、聞いたりすることから、意識なしで行われる感覚を無意識の活動とする。
3、同時に違う音楽を「感覚」していたことから、記憶から情報を引き出しそれを感覚する経路は一つではない。そしてそれぞれ別のところで情報処理されている。
4、脳は感覚器官から入ってきた情報を捕らえ、それを処理し感覚するわけだが、錯覚はこの「情報を捕らえる」前の段階まで「記憶から引き出した情報」がヒィードバックされていると考えられる。私の不思議な体験は後ろで聞こえたり、右から来て左へ遠ざかっていったように聞こえたわけだから、感覚される情報源がどこから来たのかわからないところで混合していると考えられる。

以上が考察文「感覚について」と「存在について」から得たことのまとめである。

 まず始めにこれらにでてくる言葉を統一しなければならない。
「存在について」にでてくる「感覚」は「感覚とは」にでてくる「感覚」と同義語ではない。それは意識を向けたときに見たり、聞いたりすることと同じ意味である。意識を伴うことから無意識に行われる感覚と区別する。そして「存在について」にならって、意識的に行われる感覚のうち、感覚の情報を五官から得る方を「思いなし」とし、記憶から得る方を「思い出し」とする。幻聴や幻覚、その他の現実に則した感覚ではない感覚を、幻の感覚という意味で「幻覚」と総称する。(もちろん厳密には、何が現実で何が幻かはわたしたちには知る術はない)以降「幻覚」という単語は視覚についてだけではなく、他の感覚も含まれる。

 では、ここにでてきた無意識下、意識下の活動についての考察から始める。が、間違いのないように断っておくが、この無意識、意識という単語は精神分析学、心理学で扱うそれとは関係ない。(というより、私は精神分析学、心理学で扱う意識、無意識という単語の意味を把握していないので、たまたま意味が近かったとしても関係がない) あくまでも考察文「感覚とは」「存在について」で得られた意味として扱っている。

無意識に行われるものは人の体のなかには沢山ある。例えば食べ物を飲み込めば意識せずとも胃液がでて、これを消化しようとする。心臓は血液を体中に送り込む。酸素は肺で血液のなかに取り入れられる。これらはどれも生命体にとって欠かすことのできないものである。
 一方意識して行うものはと言えば、例えば食物を確保するには意識を必要とする。その食物を食べるにも意識を必要とする。そして食物を食べなければ生き物は死ぬ。こちらもやはり生命体にとって欠かすことのできないものである。

ではどういうものが無意識に行われ、どういうものが意識の下に行われるのか?
選択を必要とするものに意識は必要となる。なにを食べるか?なにを見るか?なにを聞くか?といったような選択を必要とするときに人は意識を働かせる。選択するためには物事を区別し、識別しなければならない。

無意識に行われる感覚とは、この区別を表すところまでの働きをいう。例えば視覚なら、無意識下で色の違い、濃淡、形状などの区別を映像で表し、そして意識下で「何を見るか」が選定されて見るわけである。映像にするまでは選択する必要がないし、またできない。無意識に行われるものは選択を必要としない事柄といえよう。

 本を読むときを例にとってみよう。ただ字を眺めているだけでは何が書いてあるのか理解できない。が、理解しようとせずに、ただ眺めているだけなら意識は必要としない。(ここまでが無意識下の活動による感覚) 
理解しようとしたときにはじめて人は、意識を使って1ページの中から見る字を選び見る。(意識下の活動による思いなし) そしてまた意識を使って見た字の意味を理解し、繋げていき、本の内容を理解していくというわけである。
ところでこのとき集中力と呼ばれる力を必要とする。集中力とは人がなにかを行うときに必要なものだが、人が行うものの中には無意識なものもある。しかしそれには集中力は必要としない。つまり意識下の活動には集中力が必要だということになる。

 この集中力は長時間続かないということは誰もが知っている事実だろう。このことはこれを必要とする意識下の活動も長時間続かないことを意味する。そして二つ以上の事に同時に集中できないということは、二つ以上の事を同時に、意識下で活動を行えないということである。
人はテレビで映像を見ながら音声を聞いているではないか?と疑問に思う人がいるだろう。私もその一人だった。しかしよく自分の「思いなし」を観察するとこの場合の視覚、聴覚は同時に「感覚」されてはいても、同時に「思いなし」はされていない。(念のためここでの感覚とは、五官からの情報を無意識に脳が情報処理を行うことをさし、思いなしとは、五官から情報を得て感覚しているものに意識を向けて把握することをさしている)

ではどのようにして人はテレビを見ているのかというと、見る、聞くを交互にしている。見る、聞くのどちらかを思いなしているとき、もう一方は思いなされてはいないが感覚はされている。この感覚されたものはすぐに記憶され、そしてまたすぐに記憶から引き出される。
この「思い出し」により思い出したものを思いなししていたものに重ね合わせる。つまり映像を見ている時には音声を記憶して、すぐ後でこの記憶していた音声を映像に重ね合わせている。なおかつ「思いなし」がとぎれとぎれにならないように前の「思いなし」と後の「思いなし」とを「思い出し」で繋いでいる。
見る思いなしと、聞く思いなしそれぞれにこれが行われていて、しかもその切り替えは速く短い。そのため人はこれを同時に行っていると錯覚する。否、脳は同時に思いなししているように努力し、調整しているから、人が同時に行っていると思うのは当たり前と言える。脳の目的は実にここにあるから。


 これはテレビを見るときだけじゃなく、人と会って話をするときも同じことが言えるし、脳はさらに他の感覚にも気を配っている。ただテレビを見る、人と会って話をするだけで脳はこんなに複雑なことをしているのかと驚き、疑うだろう。これが事実なら人は日常生活においてどれだけ脳を酷使しているか!想像を絶する。
私自身を観察したものを基にに考察して導かれたものがこれであり、これによって睡眠という謎をある程度説明することができる。

私にとって睡眠の一番の謎は「睡眠は何のために行われるか?」ということだ。それは休息のためだといっても答えにはなっていない。「何の休息のためか」を説明できなければ。
例えば身体のためというのなら、ただじっと横になっているだけでも十分である。しかし睡眠はただ横になっているのとは違う。つまり身体の休息以外の目的もある。しかもそれは生命の危険を犯してまでも行わなければならないものでなければならない。

睡眠は人間だけではなく、生存競争の下で生きている野生動物までもがこれを行う。ここで先ほどの考察から得られたものを使ってこれらの謎を透かして見ると、謎を解く糸口が見えてくる。
つまりこういうことになる。

日常生活において脳は非常に酷使されている。酷使とは運動量が多いということだ。運動を行えばそこに何らかの消耗がある。それはエネルギーでもあるが、この場合問題となるのは細胞のような物質的な消耗である。物質は運動を行えば必ず摩耗する。小さな摩耗の蓄積はやがて運動をしている物質そのものの崩壊をまねく。だから細胞の単位で一個体が生命を保っていられる時間は、いくつかの細胞が集まっていて、それら細胞が次々と代謝していく個体のそれより短い。このことから睡眠を行う理由はこうなる。

脳の働きは個体にとって重要である。それは生命を維持するために。しかし生命を維持するためには脳が壊れてもいけない。脳を働かせるということは、脳を壊すことに近づけるということでもある。脳を働かせながら少しでも長持ちさせるためには休める必要がある。睡眠はまさにそのためにある。
 睡眠中は五官は完全に閉ざされているから脳は感覚「これからくる情報処理」を行わなくて済む。感覚をしないから意識を使う必要もない。私が気付くものでこの二つがあるが、この二つだけでもかなりの負担軽減になる。
一概には言えないが、脳の負担はいつも研究室で研究などをしている人よりも、サバイバルのようにいつも身を危険な状態に置いたほうが大きいと思われる。集中力の持続に限界があるのも、脳の負担と関係があるのではないのだろうか?もちろん血液の問題もあるが、例えば運動をしていた部分が疲れる状態というのは、その部分の細胞が酸素不足状態にあるわけだが、後でその部分が痛くなるのはその部分の細胞が壊れたためである。
疲れを無視して運動を続ければ後で痛くなる確率も高い。これは疲れというものが未然に細胞破壊を防ごうとするためのものではないだろうか?同じように何かに集中していて疲れを感じるというのは、脳に負担をかけ過ぎないようにするためとも言える。

集中力の持続に限界があるということは意識下の活動の持続にも限界があるということになる。
では、覚醒中に意識下の活動の持続がとぎれたときというのはどういう状態だろうか?私自身を観察した結果、何かに集中して疲れたあとに休憩すると、いわゆる「ぼーとした状態」になる。このとき私の脳はだいたいとりとめのない空想をしているか、過去のことを思い出しているかである。
空想の中には過去を題材にしたものもある。それらの間のときどきにその時目に見えているものを見たり、耳に聞こえているものを聞いたりしている。(この観察はそれらを行っているときと同時進行ではない。そうだと意識を使うことになるので、これらの観察はすべて「思い出しに」よって思い出したものを観察している。このことは意識を使わなくても人は記憶することができるということを意味する)

「ぼーとした状態」のときの空想や、思い出しはそれらをしようとして行っているのではない。だから空想や思い出す内容は選んだものではない。このことからここには意識が使われていないと判断するが、空想や思い出されたものに対し、そこにある内容を理解しようと意識は働いているし、ときどき見たり聞いたりしている時にも意識は働く。ただその持続時間は短く、次々と移り変わり長続きしない。意識は一か所に定まっておらずに漂っているような感じだ。
だいたいこのような状態が覚醒中に意識下の活動の持続がとぎれた状態である。

ここで一つ問題がでてくる。意識に依らずに何が、何にもとづいてそれらを空想し、思い出すのか?この疑問の答えは夢のなかにある。少なくともヒントはそこにある。そこで次に夢、及び夢の状態を考察する。


 始めに睡眠中と覚醒中の脳の働きに関する違いを整理する。
睡眠中は五官は完全に閉ざされているから脳は感覚「情報処理」を行わなくて済む。感覚をしないから意識下の活動もなく、それに伴う集中力およびその他の意識に付随する脳の働き(例えば字の意味を考え文章を理解するといったようなこと)はいっさいない。
一方覚醒中はこれらが全てある。

では夢を見ている状態ではどうなっているのか?私たちは夢の中で見たり聞いたりという「思いなし」を一見しているように思えるが、よく注意して観察すると、それらは選択されて思いなされているわけではない。思いなしをしているとゆうよりは思いなしをさせられている。
私たちは選んでそれらを見ているわけではなく、いつも見させられている。

このことから意識下の活動はないと推測する。しかし私たちは夢の中で他人と自分を識別し、AさんとBさんを識別している。だから「自分」を自覚する意識が働いているように思うが、これは意識による識別ではなく記憶による区別である。
何かを食べたとき味を感覚するのは他でもない「自分」である。だから夢の中で誰かが何かを食べ、その味を感じればそれは「自分」ということになる。これに他の感覚の記憶も加わる。

例えばいつも食べるときに見える自分の腕、手、足・・・などである。普段自分を自分と思うその「思い」そのものも記憶されているわけである。だから夢の中の「自他」は記憶されている「自他」で、もし意識の活動の下でこれらが行われているのなら、私たちには「見ない」という選択権も持っているはずである。
夢の中で目をつむったとしてもそれはつむろうとしてつむったのではなく、記憶に従ってつむらされているのである。

以上のことから夢の中においては意識下の活動はなく、よって集中力はここでは使われていないと推測する。では意識そのものはあるのだろうか?

 夢の中で見ている映像を見ないようにするには目を開ける(覚醒する)しかない。「これは夢だ」と夢の中で気がついた経験がある人もいるだろう。私にもある。そして私はその夢から逃れたく、そのためには起きるしかないと思い一生懸命目を開けようとしたことがある。この場合明らかに意識が働いていたといえる。意識なくして目を開けようと努力して開けることはできない。
 この時いつ私は意識下の活動を始めたのだろうか?夢と気付いた時点だろうか?起きるしかないと思った時点か?それとも起きようとした時点か?そして意識は常に夢の中で活動できる状態なのだろうか?

 「これは夢である」と気付くのはそうしょっちゅうあることではない。またもし、いつも意識が活動できる状態ならどうして怖い夢をそのまま見つづけることになるのだろうか?「怖い」と感じればその「怖さ」からどうすれば逃れられるかを脳に考えさせようとするのが意識ではないのだろうか?しかし夢の中では「怖い」と感じてもそのままである。さっきも書いたが、「見ない」という選択権もあるはずなのにそれを行使することができない。これらのことから先の私の夢の例で言えば意識は「これは夢だ」と感じたときに活動しだしたと思われる。その原因はわからない。私のさっきの場合は絶体絶命の状況になったときだった。つまり精神的に追い込まれた状況で突然「これは夢だ」と気付いたのだった(これ以降にも気付いたことは何度かあるが、それらは別に追い込まれたような状況ではなかった)。
そして目を開けようとしたけどすぐには開かず、実際に開くまでに時間がかかった。その時の状況をもう少し詳しく述べると、夢の映像はやがてまぶたを通した赤い光に変わっていった。でもその状態になってもなお目を開けることが出来ず、渾身の力を振り絞る感じでやっと目が開いた。(ちなみにやっとの思いで目が覚めたあと再び眠りについたら、また同じ場面に戻ってしまった)

その間の時間はわからない。おそらく自分が記憶しているよりもずっと短い時間だろう。意識が働き、夢の映像が消えてもなおまぶたを開けるという行為が困難なこの状態、いわゆる金縛りとはこのような状態をいうのではないのだろうか?よく金縛りにあったときに首を締められたとか、足を引っ張られたとか、何かが聞こえた、見えたとか言うが、それらは夢を見ている状態と同じだろう。つまり、それらの感覚は以前に本人が体験した感覚であり、それが記憶され、再現されているということだ。これらは、夢を見る状態にあって、何らかの原因で意識が活動しだしたが、筋肉を動かすことまでは出来ないときに起こると考えられる。
このことは脳の中で運動をさせる部分よりも意識を扱う部分の方が先に目覚める(活動する)ことを意味する。そして重要なことがもう一つある。意識が活動してもなお、夢の映像を消すには起きるしかなかったということだ。このことは夢の中の「思いなし」はやはり普段のそれとは違うことを示している。


 私たちが夢の中で「思いなし」をしていると錯覚しているのものは、以前に思いなしたものを脳が記憶して再現しているものである。このような力を「再現力」とする。以前の経験をそのまま再現することもあるが、多くはいろんな記憶を混ぜ合わせている場合が多い。その混ぜ方、混ぜて新しくできたものには意味はない。脳は無差別、無方向に記憶にあるものを混ぜ合わせている。それにしては筋が通っていたりするのは本、映画、テレビなどで得たストーリーを利用していると思われる。
それに、違和感がないのは再現された「思いなし」は実際に経験した「思いなし」だからである。このことを信じるためにはあまりにも夢は複雑過ぎる。しかし、粘り強くこの複雑なものを観察するとやがて単純に見えてくる。

ではなぜこんな凝ったことを脳はするのだろうか?人が夢を見るために脳がこんなことをしているとは私には考えられない。なぜなら夢のおかげで余計に疲れることがある。これは睡眠本来の目的を邪魔していることになるからだ。夢を見るために脳が再現力を使ってないとすれば、考えられることは脳は無意識下ではいつもこういう記憶の掛け合わせをしているということだ。
 夢を見ている状態とは私たちがこれを感知した状態である。「掛け合わせ」とはいろんな記憶を切ってはつなげ、またそれを切っては他のものとつなげたりするということ。ひらめき、アイデアなどというものはこういう脳の作業により生じたのではないのだろうかと考える。

夢を見ている状態のとき、外部から刺激を受ければその刺激は夢に現れる。このことから五官は開かれ脳は感覚していることがわかる。このとき脳は「掛け合わせ」を感覚する一方、五官からの情報も感覚している。そして五官からの情報を感覚した直後に意識が活動し出し、目覚める。掛け合わせは夢から覚めた後も続けられる。なぜそう考えるのかと言えば、発想、ひらめき、アイデアなどというものは無から突然浮かんでくるのではなく、それらはこうした脳の「掛け合わせ」というバックグラウンドから生じたものと思われるから。そしてそれらは人が環境の変化に素早く反応し、対応するのに非常に役に立ったものだと考える。
 人類はこれら発想、ひらめき、アイデアなどにより、自分たちの都合のいいように環境の方を変えることも可能にした。突然変異に依らずにこうしたことが出来たことは、個体の寿命を伸ばすことを可能にした理由の一つだろう。狩りや力仕事など一人より多数のほうが有利なものはいくらでもあるが、大勢いたほうがより沢山のアイデアが生まれ、一人で事に対処するより有利でもある。人がコミュニティーを作るようになったのは、コミュニティーを作る性格の人がそうでない人より環境に適応できた結果だからだろう。


 「考える」という脳の作業はこの無差別、無方向に活動している脳の掛け合わせに方向性を与え、その方向に沿った種類の範囲内のものを掛け合わせることだと思う。あっちから吹いたり、こっちから吹いたりと方向の定まらない風に、ある一方向だけに吹くようにさせる力、このような力が脳でいえば集中力である。
例えば俗に集中して本を読むというが、これを今までの考察の言葉で説明すれば、それまで勝手気ままに掛け合わせをしていた脳に、集中力でもって本の文字だけを見て、文章を理解するという目的のためにだけに働くようにさせる。そして意識下の活動で沢山ある文字の中から見る文字を選び見る。
その文字の意味を理解し、文章を理解するのは方向を与えられた脳がするというわけだ。

そして集中力が切れた後は再び脳は勝手気ままに掛け合わせをしだす。この状態が、「ぼーとした状態」「ふと気がついたらとりとめのない空想をしていた」といったような状態である。時々ふと古い記憶が甦ったりするのも、こうした脳の掛け合わせのために古い記憶が引っ張り出され、それをたまたま意識が拾い読みした時に起こる現象だろう。つまり最初の方に出てきた疑問「意識に依らずに何が、何にもとづいてそれらを空想し、思い出すのか?」の答えは、「脳の掛け合わせが無差別、無方向にそれらを為している」となる。こうした無差別の掛け合わせは、脳が集中力により一方向に活動してない限り行われ、ときどき意識がそれを拾い読みする。
 意識は、拾い読みをしていないときは五感の間を行ったり来たりして常に外界の状況をチェックしている。このように人はなんにも集中せずに脳を休ませているつもりでも、脳の一部分は意識として常にいろんな感覚を見回ったり、脳の別の部分では情報処理に忙しく働き、睡眠をとる以外にこの二つを休ませる方法はない。

ところで本を読もうと思うのは意識の成せる業であり、本を手に取り開くのもしかり。「ぼーとした状態」の時に無差別のかけ合わせを拾い読みするのも意識である。では夢の中でこの掛け合わせを感知しているものは何か?と考えるとやはり意識ということになる。思いなしの再現の中では意識の選択権はなかった。夢と気付いても見続けなければならないのは、その映像が再現されたものだからだ。だからといってここに意識がないということにはならない。意識はあるが、意識下の活動が出来ない状態。つまり集中力によって脳を決めたある一方向だけに働かすことの出来ない状態というのが夢を見ている状態と考えられる。私が夢と気付いて起きようと思ったのに、なかなか起きれなかったことがこれを裏付ける。行動を起こすとういのは脳を一方向に働かせた上でないと出来ないから。

ところで同じ脳の掛け合わせなのになぜ睡眠中と覚醒中とではその現れ方が違ってくるのか?睡眠中では「再現」として現れ、覚醒中では「空想や記憶の甦り」として現れる。「存在について」で私は、幻覚とは覚醒中に再現が起こることだと書いた。そして日常生活の中で夢のように脳がその再現力をフル活動したら、私たちは混乱の中で一生を終えるとも書いた。このように覚醒中と睡眠中とでは同じであってはいけない。違ってなければいけないのだが、どのような仕組みでそうなっているのだろうか次に考えてみる。

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