脳について −夢とは− 目次 ・・・・・人は日常生活においてどれだけ脳を酷使しているか!想像を絶する。(本文中より)・・・・・
始めに考察文「感覚について」と「存在について」から得た脳に関することをまとめてみる。 以上が考察文「感覚について」と「存在について」から得たことのまとめである。 まず始めにこれらにでてくる言葉を統一しなければならない。 では、ここにでてきた無意識下、意識下の活動についての考察から始める。が、間違いのないように断っておくが、この無意識、意識という単語は精神分析学、心理学で扱うそれとは関係ない。(というより、私は精神分析学、心理学で扱う意識、無意識という単語の意味を把握していないので、たまたま意味が近かったとしても関係がない) あくまでも考察文「感覚とは」「存在について」で得られた意味として扱っている。 無意識に行われるものは人の体のなかには沢山ある。例えば食べ物を飲み込めば意識せずとも胃液がでて、これを消化しようとする。心臓は血液を体中に送り込む。酸素は肺で血液のなかに取り入れられる。これらはどれも生命体にとって欠かすことのできないものである。 ではどういうものが無意識に行われ、どういうものが意識の下に行われるのか? 無意識に行われる感覚とは、この区別を表すところまでの働きをいう。例えば視覚なら、無意識下で色の違い、濃淡、形状などの区別を映像で表し、そして意識下で「何を見るか」が選定されて見るわけである。映像にするまでは選択する必要がないし、またできない。無意識に行われるものは選択を必要としない事柄といえよう。 本を読むときを例にとってみよう。ただ字を眺めているだけでは何が書いてあるのか理解できない。が、理解しようとせずに、ただ眺めているだけなら意識は必要としない。(ここまでが無意識下の活動による感覚) この集中力は長時間続かないということは誰もが知っている事実だろう。このことはこれを必要とする意識下の活動も長時間続かないことを意味する。そして二つ以上の事に同時に集中できないということは、二つ以上の事を同時に、意識下で活動を行えないということである。 ではどのようにして人はテレビを見ているのかというと、見る、聞くを交互にしている。見る、聞くのどちらかを思いなしているとき、もう一方は思いなされてはいないが感覚はされている。この感覚されたものはすぐに記憶され、そしてまたすぐに記憶から引き出される。
私にとって睡眠の一番の謎は「睡眠は何のために行われるか?」ということだ。それは休息のためだといっても答えにはなっていない。「何の休息のためか」を説明できなければ。 睡眠は人間だけではなく、生存競争の下で生きている野生動物までもがこれを行う。ここで先ほどの考察から得られたものを使ってこれらの謎を透かして見ると、謎を解く糸口が見えてくる。 日常生活において脳は非常に酷使されている。酷使とは運動量が多いということだ。運動を行えばそこに何らかの消耗がある。それはエネルギーでもあるが、この場合問題となるのは細胞のような物質的な消耗である。物質は運動を行えば必ず摩耗する。小さな摩耗の蓄積はやがて運動をしている物質そのものの崩壊をまねく。だから細胞の単位で一個体が生命を保っていられる時間は、いくつかの細胞が集まっていて、それら細胞が次々と代謝していく個体のそれより短い。このことから睡眠を行う理由はこうなる。 脳の働きは個体にとって重要である。それは生命を維持するために。しかし生命を維持するためには脳が壊れてもいけない。脳を働かせるということは、脳を壊すことに近づけるということでもある。脳を働かせながら少しでも長持ちさせるためには休める必要がある。睡眠はまさにそのためにある。 集中力の持続に限界があるということは意識下の活動の持続にも限界があるということになる。 「ぼーとした状態」のときの空想や、思い出しはそれらをしようとして行っているのではない。だから空想や思い出す内容は選んだものではない。このことからここには意識が使われていないと判断するが、空想や思い出されたものに対し、そこにある内容を理解しようと意識は働いているし、ときどき見たり聞いたりしている時にも意識は働く。ただその持続時間は短く、次々と移り変わり長続きしない。意識は一か所に定まっておらずに漂っているような感じだ。 ここで一つ問題がでてくる。意識に依らずに何が、何にもとづいてそれらを空想し、思い出すのか?この疑問の答えは夢のなかにある。少なくともヒントはそこにある。そこで次に夢、及び夢の状態を考察する。
では夢を見ている状態ではどうなっているのか?私たちは夢の中で見たり聞いたりという「思いなし」を一見しているように思えるが、よく注意して観察すると、それらは選択されて思いなされているわけではない。思いなしをしているとゆうよりは思いなしをさせられている。 このことから意識下の活動はないと推測する。しかし私たちは夢の中で他人と自分を識別し、AさんとBさんを識別している。だから「自分」を自覚する意識が働いているように思うが、これは意識による識別ではなく記憶による区別である。 例えばいつも食べるときに見える自分の腕、手、足・・・などである。普段自分を自分と思うその「思い」そのものも記憶されているわけである。だから夢の中の「自他」は記憶されている「自他」で、もし意識の活動の下でこれらが行われているのなら、私たちには「見ない」という選択権も持っているはずである。 以上のことから夢の中においては意識下の活動はなく、よって集中力はここでは使われていないと推測する。では意識そのものはあるのだろうか? 夢の中で見ている映像を見ないようにするには目を開ける(覚醒する)しかない。「これは夢だ」と夢の中で気がついた経験がある人もいるだろう。私にもある。そして私はその夢から逃れたく、そのためには起きるしかないと思い一生懸命目を開けようとしたことがある。この場合明らかに意識が働いていたといえる。意識なくして目を開けようと努力して開けることはできない。 「これは夢である」と気付くのはそうしょっちゅうあることではない。またもし、いつも意識が活動できる状態ならどうして怖い夢をそのまま見つづけることになるのだろうか?「怖い」と感じればその「怖さ」からどうすれば逃れられるかを脳に考えさせようとするのが意識ではないのだろうか?しかし夢の中では「怖い」と感じてもそのままである。さっきも書いたが、「見ない」という選択権もあるはずなのにそれを行使することができない。これらのことから先の私の夢の例で言えば意識は「これは夢だ」と感じたときに活動しだしたと思われる。その原因はわからない。私のさっきの場合は絶体絶命の状況になったときだった。つまり精神的に追い込まれた状況で突然「これは夢だ」と気付いたのだった(これ以降にも気付いたことは何度かあるが、それらは別に追い込まれたような状況ではなかった)。 その間の時間はわからない。おそらく自分が記憶しているよりもずっと短い時間だろう。意識が働き、夢の映像が消えてもなおまぶたを開けるという行為が困難なこの状態、いわゆる金縛りとはこのような状態をいうのではないのだろうか?よく金縛りにあったときに首を締められたとか、足を引っ張られたとか、何かが聞こえた、見えたとか言うが、それらは夢を見ている状態と同じだろう。つまり、それらの感覚は以前に本人が体験した感覚であり、それが記憶され、再現されているということだ。これらは、夢を見る状態にあって、何らかの原因で意識が活動しだしたが、筋肉を動かすことまでは出来ないときに起こると考えられる。
ではなぜこんな凝ったことを脳はするのだろうか?人が夢を見るために脳がこんなことをしているとは私には考えられない。なぜなら夢のおかげで余計に疲れることがある。これは睡眠本来の目的を邪魔していることになるからだ。夢を見るために脳が再現力を使ってないとすれば、考えられることは脳は無意識下ではいつもこういう記憶の掛け合わせをしているということだ。 夢を見ている状態のとき、外部から刺激を受ければその刺激は夢に現れる。このことから五官は開かれ脳は感覚していることがわかる。このとき脳は「掛け合わせ」を感覚する一方、五官からの情報も感覚している。そして五官からの情報を感覚した直後に意識が活動し出し、目覚める。掛け合わせは夢から覚めた後も続けられる。なぜそう考えるのかと言えば、発想、ひらめき、アイデアなどというものは無から突然浮かんでくるのではなく、それらはこうした脳の「掛け合わせ」というバックグラウンドから生じたものと思われるから。そしてそれらは人が環境の変化に素早く反応し、対応するのに非常に役に立ったものだと考える。
そして集中力が切れた後は再び脳は勝手気ままに掛け合わせをしだす。この状態が、「ぼーとした状態」「ふと気がついたらとりとめのない空想をしていた」といったような状態である。時々ふと古い記憶が甦ったりするのも、こうした脳の掛け合わせのために古い記憶が引っ張り出され、それをたまたま意識が拾い読みした時に起こる現象だろう。つまり最初の方に出てきた疑問「意識に依らずに何が、何にもとづいてそれらを空想し、思い出すのか?」の答えは、「脳の掛け合わせが無差別、無方向にそれらを為している」となる。こうした無差別の掛け合わせは、脳が集中力により一方向に活動してない限り行われ、ときどき意識がそれを拾い読みする。 ところで本を読もうと思うのは意識の成せる業であり、本を手に取り開くのもしかり。「ぼーとした状態」の時に無差別のかけ合わせを拾い読みするのも意識である。では夢の中でこの掛け合わせを感知しているものは何か?と考えるとやはり意識ということになる。思いなしの再現の中では意識の選択権はなかった。夢と気付いても見続けなければならないのは、その映像が再現されたものだからだ。だからといってここに意識がないということにはならない。意識はあるが、意識下の活動が出来ない状態。つまり集中力によって脳を決めたある一方向だけに働かすことの出来ない状態というのが夢を見ている状態と考えられる。私が夢と気付いて起きようと思ったのに、なかなか起きれなかったことがこれを裏付ける。行動を起こすとういのは脳を一方向に働かせた上でないと出来ないから。 ところで同じ脳の掛け合わせなのになぜ睡眠中と覚醒中とではその現れ方が違ってくるのか?睡眠中では「再現」として現れ、覚醒中では「空想や記憶の甦り」として現れる。「存在について」で私は、幻覚とは覚醒中に再現が起こることだと書いた。そして日常生活の中で夢のように脳がその再現力をフル活動したら、私たちは混乱の中で一生を終えるとも書いた。このように覚醒中と睡眠中とでは同じであってはいけない。違ってなければいけないのだが、どのような仕組みでそうなっているのだろうか次に考えてみる。 |