言葉について 目次
ではこの「言葉の実質」とは一体何か? ある時は物質であったり、ある時は行いであったり、ある時は動作であったり他にもいろいろあるが、これらに共通することはあるのだろうか?実質(いまは名詞の場合だけの実質という意味ではなく、言葉全体に通用するものを仮に実質という言葉で代用している。が誤解を生みやすいので以後これを「言葉のよるところのもの」と表現する)とはこの世界に「ある」ことについてだけにあるのだろうか?それ以外は「ない」という言葉に集約されたのだろうか?「ない」という言葉もそれのよるところのものがある。俗に言う「ないということがある」とはこのことである。この場合の「ない」とは表される側であり、「ある」とは表す側の言葉である。つまりこの場合の「ある」「ない」は或る一つのことを対象にしているのではなく、別々のことを対象にしている。それぞれの「よるところのもの」が違う。「ないということがある」とは「ない」と言い表されるもの(よるところのもの)があるという意味であって、この「ある」とは物質的存在を対象にしているのではない。例えば「みかんがない」と「みかんがないということがある」という二つの言葉の場合、どちらの「ない」も「みかん」を対象にしているが、後例の「ある」は「みかんがない」を対象にしている。「ないということがない」とは「ない」と言い表せるもの(よるところのもの)が「ない」のであり、つまり「あるということしかない」と同義語ということになる。同じように「あるということがない」とは「ある」と言い表せる対象のものが「ない」のであり、「あるということがある」とはその対象が「ある」のである。ちなみに「ないことがあるということがない」とは「ない」と言い表せる対象があるということが「ない」という意味で、最後の「ない」は「ある」にかかっている。 さて、ここまでのところで私は「意味」だとか「同義語」なる言葉を使った。言葉とはまさにこの「意味」が含まれている。声を出すだけでそこに意味が含まれていなければそれは言葉ではなく音でしかない。思慮の浅い人が{「意味がない」と言えば意味がなくても言葉になっているではないか}と言ったとしよう。これに対し私たちは言い表す言葉と、言い表される対象をはっきりさせればいい。「意味がない」という言葉には「意味」が「ない」という意味がある。これによってこれは言葉になっている。誰かが「キッチョンギャッピァー」と日本人のあいだで叫んだとする。これに意味はあるのかないのか?あきらかに日本語の範囲内では意味がないから、日本人にとってはこれは言葉ではなく音でしかない。わたしはこれを「言った」とは表現せずに「叫んだ」という表現を使ったのはそのためである。「意味」という言葉にはそれだけでいろんな意味を含んでいる。そして人により含ませている意味が違う。これは他の言葉にも言え、人により言葉の解釈が少しづつ違うのはそのためである。だからいろんな誤差が生じてくる。私が「言葉が意味するもは何か?」と言った場合の「意味」とは、言葉が言葉によって表そうとしているもののことである。この場合の「意味」が「言葉のよるところのもの」だろうか? 人はいろんなものを言葉で表現しようと努めてきた。味覚を例にとると、甘い、辛い、酸っぱい、苦い、甘酸っぱい、甘辛いなどの表現があるが、これらの言葉ですべての味を表現し得ているわけではない。表現し得ているのは一部だけで、表現し得ていないもののほうが多いのではないだろうか?「言葉にできない味」などという表現は、そうしたものをなんとか言葉で表した例だろう。ここで言う「甘い」とかの言葉は、「甘いということ」によって「甘い」という言葉になった。意味は「甘い」だが、この「甘い」という意味は、「甘いという」内容によって生じたものである。砂糖をなめたときを例にとって考えてみる。人に「甘い」と感じさせる何かが砂糖のなかにあり、人の方にその「何か」を受け止めるものがある。そしてその受けたものを感知して、それが「甘いという」内容であることを把握したうえではじめて「甘い」という言葉を発するのである。舌はその「何か」と接触する部分で、脳がそれを「甘い」と判断するわけである。 さて意味は「甘い」だが、その意味は「甘いという」内容によって生じている。人は内容を把握してないと言葉にできない。言葉に表されていない多くの味は、その内容を人が把握していないためではないだろうか?意味内容を把握したものを人は言葉にしたわけで、その結果言葉には意味内容がある。そしてこの意味内容はさらにそれがよるところのものがある。砂糖の例で言えば、砂糖の中にある「何か」が持っている特性が、意味内容の「よるところのもの」である。それに人が意味内容を与え、言葉している。もしかしたら言葉を付けることによって意味内容が確定したのかもしれない。どちらにしろ意味内容がよるところのものは、言葉や意味内容があろうがなかろうが左右されない。逆に「よるところのもの」は意味内容や、言葉を左右する。 「矛盾」という言葉の意味内容をもう一度検討してみよう。先ほどの「現実にはありえないこと」という意味は、「二つの事柄が同時には成りたたない」という内容が転じたものである。この内容によく目を向けると、矛と盾がぶつかるまでは矛盾と言えるが、その後(ぶつかり合った後)は、矛盾ではなくなっている。つまり「矛盾」という言葉が指し示す意味内容が維持されるのは、ぶつかり合う直前までである。「矛盾」とは二つの主張が、起こりうる可能性の中に一緒に含まれない場合をいう。 可能性とは現時点から枝分かれする、それぞれの分かれ道であり、次の時点では現実はどちらか一方にあり、他方は消える。「矛盾」という言葉の意味内容がよるところのものは、現実の中ではなく可能性の中にある。だから現在「ある」ものに対して「矛盾」という言葉は使えない。先ほどの考察で「よるところのもの」がないと考え誤ったのは、現実と可能性を混同していたせいである。このことから「よるところのもの」とは現実の中にあるとは限らないと言えるだろう。 話があちこちに飛んで分かりにくくなったので、いままでのところを少しまとめてみる。言葉には意味内容がある。その意味内容にはそれがよるところのものがある。つまり言葉にはそれの「よるところのもの」がある。人はその「よるところのもの」に意味内容を与えそれを言葉にしている。この「よるところのもの」とは何か? ある時は物質であったり、ある時は行いであったり、ある時は動作であったりと形はさまざまでしかも、現実の中にあるとは限らないという。言葉とは何かをあきらかにしようとすれば、この「よるところのもの」をあきらかにする必要がある。そこで次はこの「よるところのもの」を考察する。 |