「よるところのものとは」 目次
2章で扱った味を例にとって考えてみよう。「甘い」とか「辛い」という味覚は、人によりさまざまである。程度の差だけではなく、ある人にとって「辛い」ものが、他のある人にとっては全く「辛い」という味覚を生じさせないことがある。もし、食べられるもののなかに「辛い」という言葉の「よるところのもの」があるのなら、それは誰にとっても「辛い」と表現されるべきものであるはず。(ここで言っているのは、言葉の「よるところのもの」が食べ物の中にあるかないかを問題にしているのであって、辛さの原因が食べ物のなかにあるかないかを問題にしているのではない)このような個人差が生まれるのは「からい」という言葉の「よるところのもの」が、「からい」と「感じる人」の中にだけ生じるからである。つまり「辛い」という言葉の「よるところのもの」は人がそう感覚した時に頭の中にだけ「ある」のであって、食べ物の中に「ある」のではない。(辛いと感覚される要因は食べ物の中にあるが、それは言葉の「よるところのもの」とは違う)結局「よるところのもの」が「ある」か「ない」かは、感覚「した」か「しない」かによる。幽霊の例で言えば、その存在を信じていない私でも幽霊という言葉の「よるところのもの」が頭の中に生まれ(感覚し)たことにより、その言葉を覚えるのである。 「幽霊」という文字や音だけでは人にはそれが何なのかはわからない。それだけでは意味を持たないから、単なる形や音でしかない。それが意味を持った文字や言葉となるためには、何か他のものが必要になってくる。言葉となるために必要なもの・・・つまり言葉の「よるところのもの」が必要である。その「よるところのもの」を生み出す要因を含んでいるものが、幽霊に関する「話」であったり「絵」であったりするのである。「辛い」と頭に感覚される要因を含んでいるものが食べ物であるように。間違っても、幽霊に関する「話」や「絵」そのものが要因ではない。例えば幽霊と呼ばれるものの要素のひとつ「怖い」を例に取ってみると、「怖い」と頭に感覚される要因を含んでいるものが「話」や「絵」であるから、同じ「話し」を聴いても怖いと思う人もいれば、そうでない人もいる。このように実在の有無とは関係なく言葉の「よるところのもの」は生じ得る。 言葉によって無から有を生み出せるか? という最初の疑問に戻ると、「幽霊」という言葉だけでは「よるところのもの」は生まれない。が、幽霊に関する「話」により「よるところのもの」は生まれる。話は言葉によって行われる。結果として言葉によって「よるところのもの」は無から有になると言える。 これまでの考察により、「よるところのもの」には別の要因が必要であることがわかった。その要因となるものは、私たちが感覚し得る(実在の)ものの中に含まれてはいるが、その要因そのものは実在とは関係がない。そして要因によって作り出される言葉の「よるところのもの」も、実在の有無には関係なく頭の中に出来上がる。「よるところのもの」が頭の中に生じるということは、脳で「感覚すること(思うこと)」と同じ意味である。 「名は実の賓なり」という前の考察文にでてきた言葉だが、「名とは実質に伴ってやってくるもの」という意味をひっくり返すと、「名があれば実質がある」となる。すると例えば、「神という名があるからにはその実質もある。神はどこかに存在する」と言いだす人がいるだろう。これは「実質」という言葉を「存在」という言葉にすり替えているだけである。この「実質」という言葉を追求していくと、いままでの考察の中にでてきた「よるところのもの」にあたる言葉である。「よるところのもの」が頭の中に生じたことにより、それが頭の中以外の「外の世界」に存在すると錯覚しやすくなる。
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