「よるところのものとは」                          目次


 言葉によって無から有を生み出せるか?この「無」や「有」をどう扱うかによって答えは変わってくる。それを考えないと「無いということが有る」というような詭弁で終わってしまう。これは先の考察の「ないことがある」と同じ性質の詭弁である。  
 例えばこの「有無」を「存在」として扱えばどうなるか?この場合、無と有の区別をわたしたちが出来なければならない。これは非常に難しい。「無」を「存在がない」としているわけだから、「存在がないもの」が「存在するもの」になるという意味になる。その時に、はたしてそれは本当に「無」から生じたものなのか、それとも私たちが認識していなかっただけなのか、どうやってその違いを私たちが認識できるだろう?なにをもって「無」とするのかその見極めが難しい。「幽霊」という言葉を例にとって考えてみる。「幽霊」わたしは今はこれを信じていないが、信じている者にとってはそれは「有」であり、言葉で表されるのに何の問題もない。しかし信じていない私のような者にとってはそれは「無」であり、言葉で表したからと言って存在するという意味の「有」にはならない。いや、認めないだろう。私にとってはそれは依然として「無」である。この場合いったい誰が「幽霊」の存在に「有無」を付けられるのか?誰がそれを判定できるのか?それをするには「存在」とはなにかをあきらかにしなければならない。そういったことが「有無」を「存在」として扱うときに問題になってくる。だからここでは別な意味で扱うことにする。ここでは「無」を「よるところのものがない」とし、「有」を「よるところのものがある」として考える。先の考察(言葉について)で「よるところのもの」を漠然と「存在するもの」と考えていた節がある。しかし「矛盾」での考察であきらかなように「在る」というところに「よるところのもの」があるのではない。「在る」と「よるところのものがある」とは同じ意味ではない。つまり「幽霊」という言葉は言葉で表されているから当然「よるところのもの」が「ある」が、それはけっして「存在する」という意味ではない。

 2章で扱った味を例にとって考えてみよう。「甘い」とか「辛い」という味覚は、人によりさまざまである。程度の差だけではなく、ある人にとって「辛い」ものが、他のある人にとっては全く「辛い」という味覚を生じさせないことがある。もし、食べられるもののなかに「辛い」という言葉の「よるところのもの」があるのなら、それは誰にとっても「辛い」と表現されるべきものであるはず。(ここで言っているのは、言葉の「よるところのもの」が食べ物の中にあるかないかを問題にしているのであって、辛さの原因が食べ物のなかにあるかないかを問題にしているのではない)このような個人差が生まれるのは「からい」という言葉の「よるところのもの」が、「からい」と「感じる人」の中にだけ生じるからである。つまり「辛い」という言葉の「よるところのもの」は人がそう感覚した時に頭の中にだけ「ある」のであって、食べ物の中に「ある」のではない。(辛いと感覚される要因は食べ物の中にあるが、それは言葉の「よるところのもの」とは違う)結局「よるところのもの」が「ある」か「ない」かは、感覚「した」か「しない」かによる。幽霊の例で言えば、その存在を信じていない私でも幽霊という言葉の「よるところのもの」が頭の中に生まれ(感覚し)たことにより、その言葉を覚えるのである。

  「幽霊」という文字や音だけでは人にはそれが何なのかはわからない。それだけでは意味を持たないから、単なる形や音でしかない。それが意味を持った文字や言葉となるためには、何か他のものが必要になってくる。言葉となるために必要なもの・・・つまり言葉の「よるところのもの」が必要である。その「よるところのもの」を生み出す要因を含んでいるものが、幽霊に関する「話」であったり「絵」であったりするのである。「辛い」と頭に感覚される要因を含んでいるものが食べ物であるように。間違っても、幽霊に関する「話」や「絵」そのものが要因ではない。例えば幽霊と呼ばれるものの要素のひとつ「怖い」を例に取ってみると、「怖い」と頭に感覚される要因を含んでいるものが「話」や「絵」であるから、同じ「話し」を聴いても怖いと思う人もいれば、そうでない人もいる。このように実在の有無とは関係なく言葉の「よるところのもの」は生じ得る。

 言葉によって無から有を生み出せるか? という最初の疑問に戻ると、「幽霊」という言葉だけでは「よるところのもの」は生まれない。が、幽霊に関する「話」により「よるところのもの」は生まれる。話は言葉によって行われる。結果として言葉によって「よるところのもの」は無から有になると言える。


 これまでの考察により、「よるところのもの」には別の要因が必要であることがわかった。その要因となるものは、私たちが感覚し得る(実在の)ものの中に含まれてはいるが、その要因そのものは実在とは関係がない。そして要因によって作り出される言葉の「よるところのもの」も、実在の有無には関係なく頭の中に出来上がる。「よるところのもの」が頭の中に生じるということは、脳で「感覚すること(思うこと)」と同じ意味である。

 「名は実の賓なり」という前の考察文にでてきた言葉だが、「名とは実質に伴ってやってくるもの」という意味をひっくり返すと、「名があれば実質がある」となる。すると例えば、「神という名があるからにはその実質もある。神はどこかに存在する」と言いだす人がいるだろう。これは「実質」という言葉を「存在」という言葉にすり替えているだけである。この「実質」という言葉を追求していくと、いままでの考察の中にでてきた「よるところのもの」にあたる言葉である。「よるところのもの」が頭の中に生じたことにより、それが頭の中以外の「外の世界」に存在すると錯覚しやすくなる。  
 間違いがないように付け足すが、私はここで神の存在を否定もしてなければ肯定もしていない。それどころか、それの存在の有無についてはなにも考察していない。

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