感覚とは 目次
アリストテレスは形而上学の中で、視覚が我々に好まれる理由として「これが他のいずれの感覚よりも最もよく我々に事物を認知させ、その種々の差別相を明らかにしてくれるからである」と言っている。まずこの五感のうちの一つ、視覚について考察してみよう。
視覚が与えてくれる情報はその姿形である。「これ」と「あれ」とはこういう形の違いがあり、色の違いがあると教えてくれる。しかしそれがどのような形でそこに在るのかを教え得ない。私たちに触覚が欠けている時を想像して欲しい。その場合、例えば箱を立方体としてとらえ得るだろうか?思うにその場合私たちはいつも原寸大の写真の中で暮らすようなものではないだろうか?視覚がとら得る形とは、投影された形のみであり、私たちは触覚という別の感覚により、この箱の奥行きを知るわけである。視覚だけでは奥行きは知り得ない。歩いて角度を変えて見たところで、同じ一つの物体が次々と形を変えていくだけで、その謎は解けないままだろう。ちなみに歩くという動作は触覚がなければできない。この触覚による補助を人はしばしば「経験」と混同し、そう呼ぶ。そう呼ばれるのは「視覚によって得た情報を私達が推測によって認識している」と思われている時である。この「推測」は「経験」によって為されると解釈されるわけだが、その「経験」は視覚によって得られたものであるとしている。しかし実はこの経験は視覚と触覚を組み合わせて得られたものであり、騙し絵が成立するのはこのためである。もし触覚がなければ騙し絵は成立しない。なぜならその場合私たちは常に騙し絵と同じ世界の中で生活していることになるから。同じ形、大きさの箱が二個あり、角度を変えて置いてある場合に、視覚によって得られるものは「形が違う二つの物体」ということでしかない。さてこのような状態でまだ「視覚が他のいずれの感覚よりも最もよく我々に事物を認知させる」と言えるだろうか?
視覚だけではなく他の感覚もそれ一つより、他の感覚と組み合わされることにより、より大きな役割を果たす。臭覚を例に挙げて考えてみる。私たちが感知する匂いとはもともとあったものだろうか?例えば生まれて初めて嗅いだ匂いがバラと糞だったとした場合を想像してみる。この場合姿形は見えずただ匂いだけとし、その匂いの起因するところの情報も一切知らないこととする。初めて嗅いだのだから他の類似する匂いと比べることはできない。この時でもやはり「バラ」は良い匂いで、「糞」は臭い匂いなのだろうか?恐らくこの時には、それらの匂いを嗅いでもどういう価値をそれらの匂いに与えたらいいのか分からないままだろう。それらの匂いに対し、喜んだらいいのか、怒ったらいいのか、しかめっ面をすればいいのか分からないだろう。ましてや「良い匂い」や「臭い匂い」と言い分けることなどできないだろう。匂いに「刺激」という別の感覚に訴えるものがあれば別だが、匂いだけを感知する分には「良い」「悪い」の区別は生まれない。匂いの素となるものは存在するが「良い匂い」や「臭い匂い」の区別はなく、人がそれを与えるのである。それも臭覚とは別の感覚の助けを借りて。(例えば視覚が加わるだけでも大分違ってくる。味覚、触覚があればさらに違ってくるだろう。だから匂いを商品として扱う場合、匂いそのものも大事だが、その匂いにどのようなイメージを与えるかも同じように大事である。このイメージによって良い匂いかどうかを人は無意識のうちに左右される)だけど感覚が役に立つのはその「人が与えた」ものによって区別することにある。その区別とは人が生まれた時にはまだなく、成長するに従って増えていく。この増えていくことを「経験する」と私たちは言う。増やす(経験する)には当然「記憶」が必要になる。もし何らかの感覚を有する生物がいて、この感覚がその生物の役に立っているならば、この生物は記憶する能力があると言えよう。もし役に立たない感覚を有しているのなら、記憶力はその感覚を助長することなく、その感覚はやがてその生物の子孫において退化していくだろう。
さてここまでを少しまとめると、感覚は一種類だけを用いるよりも他の感覚と組み合わせることでより多くの事物を認知させ、その種々の差別相を明らかにしてくれる。そして人が物事に与える区別により、感覚は役に立つ。経験を積めばさらに感覚は役に立つ。そのためには記憶力が不可欠である。(高等な生物になればなるほど生まれ持った感覚をより役に立つものにしていくことができ、学習能力がある。この二つは別々の事柄でなく同じ事柄である)
では次に、そもそもなぜ各感覚は生まれたのかを考えてみる。感覚があれば感覚する対象があるはずである。感覚の対象を捉えることがすなわち感覚することであろう。人間には5つの感覚がある。いわゆる五感だが、この五感にはそれぞれに違う対象がある。この内の一つの感覚がないとすれば、それの対象を捉えることはできない。例えば目が見えないとすればかなり生活に支障をきたすことは想像に難くない。人間社会なら、それでも他の人の助力で生きていくことができるが、
これが自然界なら外敵に狙われる可能性が高くなるし、食料を得る可能性が低くなる。つまりこれは生命を維持するのがより困難になることを意味している。おそらくこのような場合、他の感覚が足りない感覚を補おうとより発達するだろうし、そうゆう例はすでにいくつも確認だれているだろう。それは他でもない「生命を維持するため」という目的のために個体が必然と行うことであろう。感覚が欠落した個体より、欠落してない個体のほうがよりはやく外敵を感知できるし、獲物をよりはやく感知できる。これは生存競争のなかでより有利であることを意味する。つまり感覚とは自然淘汰の下、各生物たちが生存競争の過程で、生存するのにより有利となるためにそれぞれの形態などと同様に得てきたものと言える。多種多様の生物たちはそれぞれの生活環境の中で生きてきた。だからそれぞれの環境に適した感覚を身につけている。(こうもりなどはわかりやすい良い例だろう)それぞれの環境で生き残るのに有利な感覚を。
それぞれの生物にはそれぞれの感覚がある。そして人間にはいわゆる五感が備わっているが、その五感にはそれぞれ別の感覚器官がある。それは感覚する対象がそれぞれ違うからである。いま、目の前に「白い馬」がいるとする。そしてわたしはそれを見ている。その馬の周りの風景も見えているが、わたしが見ているのは白い馬である。目は感覚器官と呼ばれているが、この目は決して見ているのではなく、ただ目の前の光景を写し取っているのである。何が見ているのかと言えば脳である。「見る」という意識によってはじめて目から入ってきた光景を見ることができる。例えば指で物を触って硬いか柔らかいかを感知するわけだが、この場合指が硬いか柔らかいかを判断するわけではない。あくまでも脳がそれを行っている。つまり各感覚器官は外界の「情報」を体の中に取り入れる受け口であり、脳がその情報を処理してはじめて五感になる。感覚器官があっても脳がうまく情報処理を行わなければ、私たちは感覚することはできない。目から入ってきた情報を脳が処理し映像にするわけだが、この映像を見るには意識という別の要素が必要になってくる。そして「見る」ということは「見ない」ものを作り出す。「白い馬」を私は「見る」ことによって、その周りにあるものや、背景を「見ない」ことになる。このように私達は意識を二つ以上のものに、同時に向けることはできない。なぜかはわからないが、それが脳の意識作業の能力限である。手品師や、スリなどはこのことを利用している。前に「見えている」「見ている」と言葉を区別したのはこういう理由からである。この意識により見るということも脳で行われることだから、「脳が見ている」とした。情報処理も、見るのも脳で行われるわけだが、情報処理のほうは意識することなく行われる。この意味でこれは無意識の範囲内での作業と言えよう。
ではなにも見なければどうなるのか?或るものを一目見て、その見たものを隠し、さっき見たものをどれぐらい覚えているかというようなことをした場合、一目見る時ににいちいちあれがある、これがあると意識を向ける(見る)よりも、どれにも意識を向けず(見ず)にただ漠然と眺めている方がより多くのものを覚えていられる。この場合、一目見た映像全体を思い出し、思い出した映像の中にあるいろいろなものに意識を向けていく。そうして感知されたものだけが覚えているものになるわけである。結局私たちは意識を向ける(見る)ことなしにものを感知することはできない。
さて視覚という感覚とは脳が映像にした段階のことを言うのか?意識によって見るところまで行ってはじめてそう言うのか?思うに脳が映像にした時点で感覚したと言え、それに意識を向けることによってその感覚は役に立つものとなるだろう。
ところで思い出す映像と、見えている映像とどう違うのだろう?情報源が一方では外界から、一方では頭の中(記憶)からという違いはあるが、どちらも脳が感覚するということでは違いがない。何が言いたいかと言うと、私たちは夢の中ではっきりした光景を見る。いろいろなものを感覚する。風を感じ、音を感じ、色を感じ、匂いを感じ、水の冷たさや、抵抗を感じる。実際にそうある(外界から情報を得ている)わけでもないのに。これらは感覚というものが脳の作業によるものだという立派な証拠になっているのでは?夢の中でこれらを感覚すること、それがあまりにリアルなことに人は驚くが、感覚は脳で行うことを理解すれば、これらは驚くに当たらない。夢の驚くべきところは他にある。それは他の考察(存在について)で考える。
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