言葉による言葉の説明 目次
「知識とはなにか」この命題は今のわたしにとってあまり興味のあるものではない。以前にはプラトン著書の「テアイテトス」を興味津々で読んだこともある。その同じ本をこの考察のためにもう一度読み返してみた。本の中のソクラテスはこういうことを言っている。(田中美知太郎訳)「知識の探究をしているということは僕たちが知識のいったい何であるかを知らない者であることを意味している。それでいて知識していることが例えばどんなふうなものであるかを宣明するということは無恥なことだとは思わないかね。−中略−幾度も僕たちはまだ知識の何たるかに無知な身でありながら「身知っている」とか「見知っていない」とか「知識している」とか「知識していない」とかいう言葉を用いて何かお互いに了解しあえるもののように振る舞ってきたのだからね−中略−知識という言葉をもし我々が奪われるにしたところでこれらの言葉を用いることは当然許されていいことのようにね」そして本の終わりのほうで「知識とは何か」という命題に対して「古来まことに幾多の知者たちが見いだしあぐんでむなしく探究の中に老いたところのもの」と形容している。この命題がいかに困難かを言い表している。本の中ではいろいろな方法で考察を試みられているが結局「知識とはなにか」の答えは出ず、「知らないものを知っていると思ったりしないだけの思慮深さをもつ」ところで終わる。
考察文「言葉について」で私は「言葉」には意味内容があり、その意味内容にはそれの「よるところのもの」があると書いた。さらにその「よるところのもの」は「実存」とは関係がないとした。さて「知識とは何か」の命題が問題にしているところのものとは何だ
ろうか?この「知識」という言葉は何かの名称である。その何かとはわたしの言葉では「よるところのもの」である。ではこの命題は「よるところのもの」を探究しようとしているのだろうか?もしそうならこれは無意味だといえる。なぜならその「よるところのもの」を言葉で表現したものが「知識」という言葉なのだから。この表現を捨てて他の言葉で表現することはできるだろうが、それにどれほどの意味があるのだろうか?より「よるところのもの」に近いものを表現するためだという意味なら、それは「知識」という言葉が適切でないことを意味する。するともはや「知識」の探究ではなくなってしまう。そうではなく「知識」と呼ばれる何かしらの「存在」の考察を意味するのなら、別の困難が生じる。それを考察するためにはまず先に「知識と呼ばれる何かしらの存在の有無」を証明しなければならないからだ。だから「テアイテトス」の中のソクラテスのジレンマは当然と言える。「知識」が何であるかを考察しているのに、その「知識」という言葉を使わざるを得ない。それはつまり「何であるか」の「なに」を表したものが「知識」という言葉なのだから。私はここで何が言いたいかというと、或る言葉が指し示している唯一無二のもの(よるところのもの)を、その言葉を使わずに他の言葉で言い表すことにはなんの意味もないことだということである。
もし「知識とは何か」と聞かれればわたしは「それは頭の中にあるもの」と答えるだろう。だがそんな答えでは誰も納得しないことは想像に難くない。しかし知識そのものについて言葉で考察しても、その「そのもの」を「知識」という言葉で表現しているのだからどうにもならない。これまでに「時間について」「言葉について」などを考察したが、これらはいったい何について考察していたのだろうか?わたしはこれらの考察でそれそのものを考察していたわけではなく、それの性質だとか特質などといったそれの回りのものを考察していたのである。例えてみるとこうなる。何か得体の知れない透明な物体が目の前にありそうだ。しかしこれは透明ゆえにそのままでは確かめることはできない。そこでペンキをかけてみる。本当にそこに「なにか」が有るのなら、そのペンキによって外形を見ることはできる。無いのなら何も現れない。しかし外形を見たからといって本当のそれを知ったことにはならない。それはあくまで外形であって中までは分からない。中に空洞があるかもしれないし、さらに別な何かがあるかもしれない。言葉で考察するという行為はこのペンキをかける作業のことで、表現となった言葉はペンキによって表れた外形ののようなものである。既にある言葉を用いずにその言葉のよるところのものを考察するという行為は、一度かけられたペンキを落とし、違う色のペンキをかけるようなものである。ペンキの量を増やそうが、かける角度を変えようが、現れるのは外形だけでその中までは知ることはできない。同じようにどれだけ多くの言葉で言い表そうが、違う言葉に変えようが、本当のそれを知ることはできない。
ではなぜそんな考察をするのか?例えば自転車とは何かと聞かれたとき、自転車の自転車たる特徴を述べたてるよりも自転車と呼ばれているものを見せるのが一番いい方法である。しかし知識とは何かと聞かれてそれを見せることはできないから、知識の知識たる特徴を言葉で述べたてることになる。つまり知識という言葉の意味内容を言葉で説明していくことになる。(このように何であるかを五感では感覚(認知)することができず、考察することによってでしか感覚(認知)することができないような種類のものをいわゆる「形而上」というのだと私は解釈している。)ペンキの例で説明すれば、現れた外形がどんな形かを言葉で説明するようなものだ。外形そのものが言葉であり、その外形の特徴が意味内容ということになる。外形があるならその特徴はあるし、その逆も言える。また、そのどちらかがなくなればもう片方も消える。このふたつは同一のものを示している。「言葉」と「意味内容」についても同じことが言える。だから「ある言葉が指し示しているものは何か」ということを既存の言葉を使わずに他の言葉で考察しようとすることは、前にあった言葉以上にその「何か」に近づく(言い表す)ことができないだけでなく、言葉を捨てると同時にその意味内容も捨ててしまうことになるから、意味内容すら考察することができなくなるということになる。よってそのような行為には意味がない。
「テアイテトス」の中でも知識の探究がいつの間にか「知識するとはどういうことか」とか「知識しないとはどういうことか」といった知識の回りの考察になってしまったり、その知識の周りを考察するために「知識」という言葉を使わざる得なくなってしまったのも無理のないことだと言える。
「言葉について」で私は「意味内容を把握したものを言葉にした」とか「意味内容を与えて言葉にした」とか「もしかしたら言葉を付けることによって意味内容が確定したのかもしれない」というふうに「言葉」と「意味内容」の関係について一貫性のないことを書いていたが、それはこのふたつが同一のものを示しているのだということがわからなかった為である。このふたつは「よるところのもの」の様相を表そうとした結果生まれたものを、違う角度で表現したものである。だからどちらが先にあるということはなく、同時に生まれ、消滅する。そして言葉によって言葉を説明するということは、言葉の意味内容を言葉で説明するということに他ならない。それ以外の目的では意味がないか、不可能かのどちらかである。以上で言葉による言葉の説明の考察を終わります。
ちなみにわたしは知識とは「考える材料」だと思っている。料理で言うところの「食材」である。「料理人は食材料を使い、ある料理方法でもって料理を作りあげる」わけだが、これを知識に置き換えると「人は知識を使い、ある思考方法でもってものを考える」となる。料理人がいて材料があっても、料理人が料理を作る気にならなければ料理は生まれない。料理する気になっても料理方法が分からなければ料理と言えない変なものができあがる。材料は文字通り宝の持ち腐れとなる。知識についても同じことが言える。知識があってもそれそのものだけでは何の役にも立たない。同時に思考方法も知らなければならない。いろんなことを知っているけどそれらを使って自分でものを考えない人がいる。「あの人は知識だけはある」と言われているような人がこの種の人である。こういう人の言葉にはいろいろな難しい言葉がでてくるが、中身が乏しい場合が多い。それは他でもない、思考方法でもって知識を料理してないからである。
教育という問題は非常に難しい問題だが、その一部分としてこのことが言える。というのもあまりにも知識偏重になりすぎている。子どもたちに考えさせることをあまりさせずに、すぐに答えを与えてしまう。数学の応用問題ですら応用問題ではなく、一つの知識になってしまっている。「こういうパターンの応用問題はこういう方法で解く」などと・・・。すべてはよい点を取るためであり、これには受験が大きくかかわっていると思う。受験で重要なのは点数である。また、かの通信簿もテストの点数に左右される。となるとどうしても点数が高い方がいいということになる。高い点をとるためには問題に正解しなければならない。周りの人間も答えが正解することだけを誉め、たとえ答えが違っていてもその考え方が良いという誉め方をしない。そういうところに誉めるところがあるということにさえ気づいていない人が多い。教育者や親という立場の人の中にも。こういう状況下で物事を教わった子どもたちの中でいわゆるエリート校に入っていく人たちがいる。彼らの多くは自分でも賢いと思うわけだが、一歩外へ、つまりテストの点によって評価される世界から外へ出た途端、一気に自信を失ってしまう人もいる。そういう人は思考方法を身につけなかった人だと思われる。もちろん全部が全部とは言わない。思うに今や90パーセント以上の人が大学へ行くのなら、知識を詰め込むのは中学以上の教育過程で十分ではないだろうか?せめて小学校の間ぐらい知識偏重を止め、子供たちに考えることをさせるべきだと思う。テストを行ったとしてもそれは子供たちが何を知って何を知らないのかを知るために利用すればいいのであって、そこに点数を付ける必要はないはず。数字というものには恐ろしい力があり、それにより或る者は早くも虚の優越感を持ち、或る者は早くも虚の劣等感を持つに至る。もちろん知識は必要なものであるし、思考方法だけでは物事は考えられない。このバランスの難しさも教育の難しさの一つである。しかし思考法が誤っているとおかしな考えが生み出されることになる。知識が欠けているより始末が悪いのは、知識がいくら増えていっても、このおかしな考え、及び考え方は改正されることがないところにある。きちんとした思考法を身につけるまで、あと後まで尾を引くことになる。
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