価値とは                                     目次



 価値と聞いてお金のことを思い出す人もいるだろうが、ここではお金以外の価値について考える。お金については「金持ちと貧乏人」で扱う。ここで扱う価値はお金に変換できるものもあればそうでないものもある。

 古代ヨーロッパの哲学者がおもしろいことを言っている。アルクマイオンという人の言葉だが、彼は「人間的な事柄の大部分が対をなしている」と言っている。「対をなしている」ものが「人間的な事柄」と言っているところがおもしろい。それら「対」の例として白と黒、甘と辛、善と悪、大と小というようなものを挙げて、これらを「人間的な事柄」としている。一方それら「対」を10種類だけに限定し、その「10対」は諸存在、またその諸属性や状態を形成する原理としているのが「ピタゴラスの徒」である。アリストテレスはこのふたつの考えを「同じようなこと」としているが、私には素材を同じくして全く違うものがふたつ生まれているように思える。

 というのは「ピタゴラスの徒」は「対」を10種類に分類し、区分した。「諸存在の諸属性や状態」は本当にこれら10対だけで表されるのだろうか?彼らは全ての存在に対しそれを確かめたというのだろうか?例外は一つもなかったのだろうか?誰のことばだったか忘れたが「見るということは見ないものを生み出し、分類するということは分類しないものを生み出す」と言った賢人がいる。つまり我々の能力の限界を言ったものであるが、同感せざる得ない。そして「ピタゴラスの徒」はその「10対」を「諸存在、またその諸属性や状態を形成する原理」としている。これは「対」とは諸存在側に、もしくはそれの諸属性や状態に内在する、またはそれらにそうあるものであって、人間が係わる、係わらないことなどは関係がないということになる。他方アルクマイオンという人はその「対」をこれこれだと明言はせず、ただ「人間的な事柄の大部分」という言葉でこれを言い表し、「対」を「人間的な事柄」、言い換えれば「人間が関係する事柄」としている。まさにこの二つの主張は相反するものだと思う。同じような「対」を扱ってこのような差ができるのはなぜだろうか?

 例えばここに石が二つあるとする。一方の石は形が良く、光沢があって色も美しく、他方より大きく、重い。もう一方の石はこれの逆だとする。これにより、一方の石は他方の石より珍重され、より価値があるとされている。

 もし、これらの要素(美しい、良いなど)が石そのものに最初から含まれているならば、すべての動物、自然はこの二つの石を同じように区別していることになる。そしてその石自身たちも・・・?私にはとてもそうは思えない。鳥が美しい方の石をわざと避けて糞尿をするだろうか?野生の動物が美しいとされている石だけを選んで持って帰るだろうか?(或る種の鳥が硬いもの、光るものを巣に置いておく習性があることは知っているが、それは美醜の感覚によって行われているとは思えない)さらにその石自身にそれらの要素が備わっているのなら、どんな動物や自然に対してもそれらの価値は同じでなければならない。然るに人はときに一つのものをめぐって「美しい、美しくない」と言い争っている。同じ人間どうしでもこのような差がでてくるわけで、これに他の動物が加わればどうなるか?

 「善悪」だとか「美醜」だとか「大小」だとかいうものは、一体誰にとってそうなのかを考えてみた場合、それらの要素は人間にとってである。その人間も万人ではなくて、そう思う人にとってである。人はみな自分の判断を正しいと思っている。そしてこの判断はみなばらばらである。

 違う例でもう少し詳しく考えてみる。「小さい馬」を見てわたしは小さい馬がいると思うわけだが、この「小さい馬」とはいったい何だろうか?まず馬だけを考えてみる。何をもって人は「馬」とするのだろうか?姿形だけをもって馬としていないことはすぐにわかる。なぜなら粘土かなにかで馬そっくりのものを作りあげても人はそれを「馬の模倣」と言うからだ。「馬」が「馬」である所以は、姿形プラスなにかである。それを一言で言い表すことは出来ないが、例えば啼き方がそれであり、首の振り方がそれであり、匂いがそれであり、尻尾の動かし方、歩き方がそれである。これらを合わせて私たちは「馬」と認知するわけである。次に「小さい」とは何だろうか?「馬」が「馬」である所以のように、「小さい馬」が「小さい馬」である所以として「小さい」というのが「小さい馬」にあるのだろうか?これはそう呼ばれる馬に付随しているのだろうか?
 ピタゴラスの徒はこの「小さい」を「諸存在、またその諸属性や状態を形成する原理」としている。つまり「小さい」は「小さい馬」と呼ばれる馬の属性としている。

 「小さい」「美しい」などの概念は、比較して始めて生まれる。大きさがすべて一緒なら、姿形がすべてまったく同じなら、美醜や大小の概念はどうやって生まれるのだろうか?生物が自分と馬一頭だけしかいないのなら「馬」という呼び名は変わったとしても「馬が馬であるところのもの」は消えることはないだろう。しかし大きさを比べる他の馬がいなくなったのに、それでも「大小」の区別は残っているだろうか?自分より大きい、小さいという「大きさ」は残るが、「大きい馬」とか「小さい馬」と呼ばれる「大小」はなくなる。つまり「諸存在、またその諸属性や状態を形成する原理」には大きさはあるが大小の区別はなく、形相はあるが美醜の区別はない。「大小」「美醜」その他このような「対」を成す価値は人間が比較の上で作り上げたものであり、それを認知するのも人間である。「小さい馬」という概念を人間が馬に一方的に押しつけているのである。しかし人間なら誰でも同じ価値をつけるとは限らない。個人差がある。結局「小さい馬」の「小さい」とはそう思う人だけに生じる価値あって、そう思わない人には生じない価値である。

価値は比較によって作られる。このことを利用してアルクマイオンの言葉「人間的な事柄の大部分が対をなしている」を説明することができる。彼が「対」の例として挙げているのは白と黒、甘と辛、善と悪、大と小などである。これらはどれも「そう思う人にとってそうである」ことで、「そう思う人」は他のものと比較して「そう思う」のである。実際にふたつならべて比べたり、他方または両方を思い浮かべて比べたりする。例えば目の前に石があり、その石を小さいと思ったとする。その場合私達は意識するしないにかかわらず、何かと比べてそう思うのである。さて、その際比べられたものは小さいと思われた「石」からすれば「大きい」ということになる。私たちは「小さい・・・」と思った瞬間同時に「大きい・・・」をいつも作り出している。この逆の場合も同じ。「これ」と言った瞬間に「あれ」が生まれるのと同じである。どちらか片方がなければもう片方もなくなってしまう。結果これら「比較によって生じる価値」は必ず「対」をなしている。そして「比較によって生じる価値」は「人間的な事柄」である。なぜなら人間がその比較を行うから。よって「人間的な事柄の大部分が対をなしている」ということが言える。


 ではなぜ人間はこのような比較を行うのだろうか?それは物事を識別し、区別するためだろう。なぜ識別し、区別するのか?私は「感覚について」で感覚をより役に立てるためには記憶力が不可欠と書いた。人類の進化の途中でこの記憶力は増大していった。これにより、より多くのことが記憶でき、識別し、区別できるようになった。このことは自然淘汰の下の生存競争では有利なことである。例えば視覚を例にとると、白黒でしか外界を捉えられない生命体より、カラーで捉えらえられる生命体のほうが獲物や外敵を認知しやすい。このことは森の中の写真を白黒とカラーで見比べてみればすぐにわかる。カラーの方が個々のものを識別しやすい。(余談だが、カメレオンのような生物がいるということは、それが自然淘汰の中では何らかのメリットがあることを示している。それは、私たち人間以外にも色を識別する生物がいることを推測させる)そして白黒よりカラーの方がより識別し、区別するための記憶力を必要とする。

 思うにもともとは獲物、外敵に関係するものに関して区別や識別を必要とし、物事にいろんな価値を付けだしたのだと思う。そのために発達した脳のためにさらなる記憶力の増大と、識別能力の増大に繋がっていった。そしてそのことと、知りたいという欲求(どのようにしてこの欲求が生まれたのか今のところわからない)、その他私の思いつかないことなどが原因でさらにいろんな事物を識別、区別しようとしている。
「理性がこの世界のすべての秩序と配列との原因である」とアリストテレスは言っている。「秩序」や「配列」を世界(自然)の中に欲しがっているのは人間であり、人間はそれらにより世界(自然)を把握したいと思い、把握できるようになると思っている。このような「秩序」と「配列」は物事を識別し、区別しなければ認識できない。「世界の秩序と配列」があるかどうかは疑わしいが、少なくとも昔から人類はそれを探し求めてきた。その欲求がどのようにして生まれたのかはわからないが、そのような欲求は人をしてよりいっそう物事の区別、認別へと向かわせたと思われる。




 ここまでは対をなす価値について考えてきた。次は対をもたない価値について考えてみる。例えば木材を組み合わし、座れるようなものを私たちは「椅子」と呼び、これに木材とは違う価値を与えている。その木材も、もととなる木とは違う価値を与えられてそう呼ばれる。このような価値について考察してみる。

 まだ椅子というものがなかったときに、誰かがはじめて椅子を作った際に「椅子が生成された」と言っていいのだろうか?そしてその椅子を誰かが壊したとき「椅子が消滅した」と言えるだろうか?ここで注意しなければいけないのは「椅子」と呼ばれているものに「椅子」という存在価値を与えているのは人間だということ。自然界の中では椅子に使われている木材は椅子となったいまでも木の一部であることに変わりはなく、それ以外の意味はない。だから人間にとっては「生成し消滅した」ことになるが、自然にとっては「椅子」などという存在価値は始めからないわけだから、それは「生成もしなければ、消滅もしない」ということになる。つまり「誰にとって」ということが重要である。

 では私たちにとって、感知し得る椅子の存在としては「無」だったものが「有」になったと言っていいのだろうか?この場合何をもって「椅子の存在」とするか、何をもって「感知し得た」とするかが問題となってくる。「見る」ということも感知することの一つであるが、5センチくらいの大きさの椅子を見ても人はそれを「椅子の模型」と言って、「椅子」とは区別するだろう。人が座れるという要素が欠けているからだが、「椅子が椅子であるところのもの」を感知するまでは人は椅子とは呼ばない。「椅子が椅子であるところのもの」とは、私の他の考察で「椅子のよるところのもの」と名付けたものと等しい。そしてこれを考察することは出来ないという結論が既に「言葉による言葉の説明」でている。
 「何をもって感知し得たとするか」という問題は、私たちが諸存在をどのようにして感知するかということと、存在とは何かということが問題になってくる。(この問題に関しては9章「存在について」で扱うことにする)だからここでは、感知し得る椅子の存在としては「無」だったものが「有」になったと言えるかどうかはわからない。
 ちなみに プラトンは「椅子が椅子であるところのもの」をイデア(実相)と名付けている。そして次のようにそれを考えている。[椅子がまさに椅子であるところのもの(イデア)を神が作り、それを見つめながら椅子を作るのが職人であり、その作られた椅子を真似るのが画家である]この「イデア」とは私の言葉でいうところの「よるところのもの」であろう。私の前の考察に従えば「椅子」という言葉はその「よるところのもの」を人が把握しようとしたときに生まれたものに対して名付けられたものとなるが、「よるところのもの」と「現物としての椅子」との関係には触れていない。

プラトンは「イデア」により「椅子」そのものが作られると言っている。はたしてそうだろうか?まだ椅子がこの世にひとつもないときに、イデアはあると言えるのだろうか?誰かが頭の中で椅子のようなものを思い浮かべたとしても、それが本当に椅子のイデアに成りうるためには、実際に椅子と呼べるものができなければならない。しかしはじめて椅子を作る人はその頭の中にある「椅子のようなもの」を見ながら作るわけだから、「椅子」そのものよりも「椅子のイデア」が先になければおかしいということになる。この二つを合わせて考えた結果、次のようになる。人の頭のなかに「椅子のイデア」のようなものがあり、「椅子」はそれに基づいて作られる。が、それが本当に「椅子のイデア」かどうかは実際に「椅子」が作られるまで確かめられない。「椅子」が出来上がったときにはじめてそれは「椅子のイデア」と呼べるものとなり、「椅子」が出来上がらなかった場合は「何か他のもののイデア」ということになる。
 「イデア」と「よるところのもの」が同じものを言い表しているのなら、言葉は諸存在よりも先に作れることができるということになる。「タイムマシン」などという言葉があることからこれは証明される。厳密に言えばこの「タイムマシン」という言葉の「よるところのもの」は実際にタイムマシンができるまでは「タイムマシンのようなものの、よるところのもの」であるが、このようなタイムマシンの「よるところのもの」と「飛行機」「椅子」などの「よるところのもの」とはその性質において何も差異はない。(これは頭の中にある各言葉の各よるところのものを指して言っている)


 ところで「石」や「水」などはどうだろうか?これらはあきらかに人が名前を付ける以前からある。これらのものは人にとってだけそうあるものではなく、自然にとってもそうあるものであるから、人にとってだけそうあるものと区別して考えなければならない。これらとこれらに人が与えた名称との関係は考察「言葉による言葉の説明」に従うとこうなる。「石とは何か」という質問に対する一番良い答え方は「石」と呼ばれているものを見せることである。その「石」と呼ばれているもののなかに「よるところにもの」がある。そして「石とは何か」という質問の「何か」を言葉に表したものが「石」であり、この言葉は「よるところのもの」を人が把握しようとしたときに生まれたものに対して名付けられたものである。
 「椅子」のイデアは人の頭の中にあり、それによって「椅子」は作られるわけだが、「石」の場合そのようには言えない。そこでプラトンはここに「神」を持ち出した。「神」が石などのイデアを作ったかどうかということを論議するためには「神」の存在を証明し、その性質を明らかにしなければいけない。だからこれ以上これには触れないが、人にとってだけそうあるもののイデアは「神」が作ったと言うよりは「人」が作ったと言うべきだろう。

 さて「椅子」「木材」「石」「水」とかを、私たちはどのようにして呼び分けているのだろうか?それは区別することによって呼び分けている。どのように区別してるのかと言えば、他との差異を認知することによって区別している。私たちは他のものとの差異が認知できない(見つからない)ものは区別することはできないし、呼び分けれない。そういうものに個別の名称を与えることもできない。「椅子」と呼ばれているものは他のものとの差異が認知され区別された結果「椅子」と呼ばれている。これを前の考察で得られた次の言葉、[言葉は「よるところのもの」を人が把握しようとしたときに生まれたものに対して名付けられたものである]に当てはめると、「よるところのものを人が把握する」という作業は「他のものとの差異を探す」ことであり、「そのときに生まれたもの」とは「認知された差異により生まれた区別」である。そして「それに対し名付けたもの」とは「区別したものに個別の名称を与える」ということになる。これらの言葉を使って言い直すと次のようになる。「言葉は他のものとの差異を認知することにより生まれた区別に個別の名称を与えたものである」
 2章の「言葉について」ででなかった答えがここで出てきた。「よるところのもの」とは「他との差異」と言っても差し支えないだろう。「他との差異」とは同時に「それの性質」でもある。

 話があちこちに飛んでわかりにくくなったので「対を持たない価値」についてまとめてみる。人は事物の差異を認知し、区別したものに「名」を与えた。その認知された差異こそそのものの「価値」である。そして「名」を与えられたものには、人にとってだけそうあるものと、万物にとってそうあるものとの2種類ある。同じように価値も「人にとってだけの価値」と「万物にとっての価値」と2種類あるということになる。

   目次