空間と運動 −三次元−      付記  相対性に含まれる相対的要因      目次


 いま目の前に透明なプラスチックでできた四角い箱がある。その箱は完全密封されている。私はそれを少し右に動かした。はたして箱の中の空間とその周囲の空間は同一の空間であろうか?箱の中の空間は私のいる空間の一部だろうか?わたしは窓を開け風を取り入れた。カーテンが揺れる。箱は無表情のままだ。はたして箱の中の空間とその周囲の空間は同一の空間であろうか?次に私は箱を外へ持ち出す。外は雨が降っている。私はずぶ濡れになったが箱の中には雨はいない。面白くないので箱を川に捨てた。箱はその重さ分だけ沈み、流れに身を任せて流れていった。はたして箱の中の空間とその周囲の空間は同一の空間であろうか?そして箱の中の空間は私のいる空間の一部だろうか?

 今度は箱を大きくしてその中に地球を入れてみた。はたして箱の中の空間とその周囲の空間は同一の空間であろうか?箱の中で地球はくるくるとこまのように回っている。その地球上で私はロボットに紙の上へ、同じ軌道で円を二回書かせた。同じ軌道だから円は一つしか描かれていない。が、地球を入れた箱の外から眺めるとロボットのペン先の軌道は、ブタのシッポのようになった。どちらの軌道が本当のロボットの軌道だろうか?さらに私は太陽系を箱の中に入れた。するとさっきのブタのシッポは伸びたバネのような軌道になった。どれが本当の軌道だろうか?これらは観測者と観測物との間の運動の差による。つまり物体の運動の軌道は、観測物と観測者との相対的運動状態によりいくらでも変わる。

 いま目の前に大きな岩がある。地球上の私との関係においてはその岩は静止していることになる。地球を入れた箱の外の者との関係においては岩は動いていることになる。一体岩は動いているのだろうか?止まっているのだろうか?動いているとすれば地球上で止まっているものはあるのだろうか?さらに太陽系、銀河系を入れた箱の外で見た場合、さらにもっと大きな規模にした場合、その運動の軌道はどうなる。どれが本当の軌道か?
 もうおわかりだと思うが、物体の運動の軌道はどれが本当でどれが本当でないというものはない。どれもその軌道を見出す観測者にとってだけ「そうある」のである。別の運動をしている観測者AとBが共に物体Qの運動を観測し、現れた軌道を比べたとしても、そこに出てくる差は観測者AとBの運動の差でしかない。

 私たちは地球上でいろいろな実験観測を行っている。例えば平らだと思っているところに玉を転がし、そこに直線なる軌道を見いだす。しかしその軌道には、自分たち観測者が観測物と一緒にある別の運動をしていることは含まれていない。これを考慮しようとしても私たちは宇宙全部の構造、運動を把握していないから無理であるということもある。さっきまでの私の空想も地球が自転、公転しているものと仮定しての空想である。私たちにはそれを確認することは出来ない。ロケットから地球を観測して地球は自転していると言ったとしても、ロケットは絶対の観測者にはなり得ない。今のところそれが正しいらしいと推測できるだけである。


 私たちは物質の運動を感知するとき何か対象物となるものを必要とする。私たち自身がそれになるときもあるし、他のものをそれとするときもある。それがなければ運動していることを知り得ないのである。観測者がいる限り運動していることは知り得る。が、しかしそれがどのような運動をしているのかを知るためにはやはり何か対象物を必要とし、「どのような」を計るための物差しが必要となる。この対象となるものが前にでてきたプラスチックの箱である。この箱をもっと簡略化し、数字を付けたものがあのX(横)、Y(縦)、Z(高さ)の三軸である。物質の運動が単純なものなら二軸だけでも足りるが、それより複雑な運動は三軸あれば足りる。
 「どのような運動か」を知るには運動の軌道を把握しなければならない。「運動の軌道」とは物質の変化の状態を形に表したもので、三軸はその「形」の対象である。もう少し詳しく述べると、ものには何らかの形があり、私たちはそれを感知できるわけだが、それが具体的にどのような形をしているかを知るためにはこの三軸が必要となる。だからこの三軸は人が物質の形、大きさなどを把握するために作り出したものと言える。運動の軌道は形で表されるから、この三軸で把握できるということである。XYZの三軸は何処に置いても軌道をそこに示すことが出来る。もちろん何処に置くかで軌道は変わる。(これは観測者を何処に置くかということであるから)

 宇宙は何次元だろうか?俗に言う四次元はこの三軸で表される三次元プラス時間だが、私は「時間について」で「時間」とは「速度」とした。その速度は「物質が変化することによって生じるもの」としている。これを四番目の次元に加えると次のようになる。太陽系を巨大なXYZの三軸の中に置いたときの観測者から、さっきのロボットのペン先の軌道を見る。このときに現れる軌道がつまり速度でもある。私の考察からは四次元はこうなってしまう。なぜなら速度とは「物質の変化によって生じるもの」であるが、それは速度が「物質の変化の状態を表す道具」だからである。そして「時間について」で私は「一つの変化の状態を速度でも距離でも時間でも表せれる」とした。これらはどれも「物質の変化の状態を表す道具」であるから。「運動の軌道」とは前にも述べたように物質の変化の状態を形に表したものである。(軌道が物質の変化の状態を形に表したものなら、速度、距離、時間は物質の変化の状態を数字で表したものという方が、適切だろう)だから「軌道」には速度も距離も、そして時間と呼ばれているものも含まれているし、このことは軌道とは速度でもあり、距離でもあり、時間でもあり、またこれらすべてであるということも言える。(ただ数字として表されていないだけで、それらは含まれている)俗に言う四次元と呼ばれるものの四番目に加えられているものは実は「物体の変化」である。時間とはその状態を数字で表す道具なのだが、いつのまにかこれが入れ替わってしまった。そして「時間について」で考察したように誤った未来、過去の概念を四次元に加えてしまった。


 私たちが空間=三次元と考えるのは思い込みではなかろうか?三次元は物質およびそれの軌道を表すのにふさわしいが、空間そのものを表すのにふさわしいかどうかはわからない。例えば次のような疑問を考えてみる。地球上で紙の上に点を描く。すると地球を入れた箱の外の観測者にはそれが一次元の線となり、線を描けば二次元の面となり、面を描けば三次元の立方体となる?立方体を描けば?これを太陽系を入れた箱の外から見るとさらに一次元増える? これらは全てその描かれた絵の軌道を把握するための次元の数である。立方体をどのように動かしてもそれより先は三次元あれば足りる。観測者により紙(点)の軌道が変わっても点は点のままで変わらない。だから宇宙空間は何次元か?を考察する前に、はたして空間を表すのに次元という概念が適切かどうかが考察されなければならない。そのためには「空間とは何か」を考察する必要がある。これは別の考察(空間とは)でするが、いま言えることはXYZの三軸は「ものの形態を表すための道具」だということ。これを持って空間と置き換えるなら、「時間とは時計であり」「距離とは物差しである」と言うのと何ら変わりがないということである。

 「時間について」でも考察したが、例えば子どもが一人で百メートルを走ったとする。そこには何らかの速さがあるが、それがどのような速さかは知りようがない。しかし時計があればそれを知ることが出来る。つまり時計と私たちが呼んでいるものは、ある速さがどのような速さかを知るための対象として人間が生み出した道具なのである。このように、私たちは「何か」を知ろうとすれば必ず何らかの「対象(物差し)」を必要とし、それを作ってきた。知ろうとせず放って置けばそれは「あるがまま」にあるのだが、知ろうと努め、知ったものはもう「あるがまま」ではなくなってしまっている。それは私たちが「あるがまま」のものをあるがままに知ることができず、自分たちで作り出した対象(物差し)との相対的関係において(間接的)でしか知りようがないからだ。言葉についてもこのことが言える。私たちはペンキをかけるという作業ををすることでしか「何か」を知りようがない。(言葉による言葉の説明より)何とも皮肉な話だが、私のいままでの考察が指し示しているところによればそういうことになる。それから私たちは自分たちの頭の中に勝手に作り出したものを、以前から存在しているものと錯覚している場合が多い。

 いままでに数多くの哲学者や知者たちがいたわけだが、誰か一人でも「なにか」の「真」をつかんだ者がいただろうか?いまのところそれが「真」らしいと言えるものはあるだろうが、それがいつまで「真」を保っていられるだろうか?一体誰にそれらが永久に「真」であり続けると言えよう。ポアンカレの真似をするわけではないが、私は私の考察によりこう結論せざるを得ない。そしてまたこのことさえ「真」であると私には言えない。 目次へ



 付記 相対性に含まれる相対的要因
 
 上の考察で出た一つの結論「私たちが「あるがまま」のものをあるがままに知ることができず、自分たちで作り出した対象(物差し)との相対的関係において(間接的)でしか知りようがない」が、間違いでなければ、私たちが知っているものは全て相対性を含み、間接的なものであることになる。
 例えば例1)或る惑星Aに対して一定の速さで運動している惑星B
     例2)静止している或る惑星Aに対して一定の速さで運動している惑星B
 この例1と例2の違う点、共通点はなんだろうか?惑星Aに対する惑星Bの運動はどちらも同じである。その運動は惑星Aとの相対関係によって生じるから。
 では例1の惑星Aは運動しているのかいないのか?例2の惑星Aは本当に静止しているのか?例1、例2共に人がこれを想像するときには、想像している人は第三の立場でこの二つの惑星を傍観することになる。すると惑星Aが静止しているかいないかは、第三の立場の私に対して動いているかいないかという、私との相対関係で決まる。さて、私との相対関係において静止しているからといって、惑星Aは静止しているといっていいのだろうか?これは先の考察ででてきた地球上での岩と私との関係と同じである。つまり惑星Aと同じ運動をしている観測者にとってだけ惑星Aは静止しているということが言える。例2を聞き、頭にそれを思い浮かべた人は瞬間に、無条件で惑星Aと同じ運動状態であることになる。
 
 では次に観測者を惑星Aに乗せた場合と話した場合とを想像して比べてみよう。共に観測者は惑星Aと同じ運動をしているものとする。惑星Aに乗っている観測者から惑星B見た場合、惑星Bが動いているのかそれとも自分がいる惑星Aが動いているのか判断できない。が、どちらかを静止している(基準)として二つの惑星の物理的な変化を書き表そうと、支障はない。これが物理学上の相対性である。
 ところがもう一方の観測者、惑星Aから離れて第三の立場から見た場合、わたしたちは明らかに静止している惑星Aに対し、動いている惑星Bを想像する。(つまりここではどちらが動いていて、どちかが静止しているのかを定めている)しかしこれは、わたしたちの日常生活によって生まれた経験による錯覚である。


 例えば橋の上から川の水が流れているのを見ているとき、自分と橋が動いているように錯覚するときがあるが、次の瞬間、川の水の方が動いていることを悟る。例えば止まったばかりの自分が乗っている電車が動き出したと思うときがあるが、次の瞬間動いているのは隣の電車であることを悟る。
 それはなぜか?わたしたちは土手やプラットホームが動かないことを知っているからである。私と土手(プラットホーム)との関係において水(隣の電車)の方が動いていることを知るわけである。もし土手やプラットホームのような第三のものがなければどうなるか?またあったとしてもそれが動かないと断定できなければ?・・・どちらが動いているか判定できないだろう。
 わたしたちはこのような経験から動くものと動かないものを判別できると錯覚してしまっている。しかしこれまでの考察から観測者と観測物との関係において次のことが言える。それは「観測者は、いかなる観測物に対しても、それが静止しているのか否かを断定することはできない」ということである。
 このことを使って、相対性理論がでてくる以前に問題になっていた、「動いている物体の関与する電気現象を説明する場合に生じる大きな違い」について説明してみる。
 
この問題とは磁石と銅線の間に生じる電流に関することで、銅線が動いた場合と磁石が動いた場合とでは同じ大きさの電流が発生するにもかかわらず、その発生の原因が異なるというものである。
 簡単にこれを説明すると、
 観測者A)磁石が静止した状態で銅線を動かすと磁場の作用のもとに銅線内の電子は磁力を受ける。そしてこれが観測者Aにとっての電流発生の原因である。
 
 観測者B)銅線が静止した状態で磁石を動かすと電場が発生し、これが銅線内の電子に力を及ぼし電流が発生する。観測者Bにとっての電流発生の原因は電気的力である。

 観測者C)観測者Bのように銅線に対して磁石が移動するが、この場合観測者Cも磁石と同じ方向に同じ速度で動いているとした場合、観測者Aと同じ電流発生の原因となる。つまり磁石は静止していて銅線が動いているのと同じ説明となる。 

 これら観測者ABCの間にある違いを、先の私の考察から得た「観測者は、いかなる観測物に対しても、それが静止しているのか否かを断定することはできない」を使って説明をするとこうなる。
 磁石に対し銅線が動いたと観測者Aは観測するが、これは観測者と磁石を地球との関係において静止していると仮定しているだけである。地球という第三の相対物を取り除いた場合、どちらが動いているか判定できるだろうか?観測者Bの場合も同じことが言える。私たちは無意識に第三の相対物を作り出し、経験から静止したものを判定できると勘違いしている。しかし実際は私たちには静止したものを断定することはできず、仮定した上でしか観測できない。だから本当はどちらが動いているのか私たちには断定できないから、観測者AとBの電流発生の原因の違いは意味を成さない。
 
 また観測者Cについて言えば、この場合は地球との関係はなく、磁石と観測者対、銅線という二つの運動の相対関係だけで想像されている。つまり観測者はいつのまにか地球と一体となったり離れたりして、一定の立場ではない。公平な観測者を作ろうとするならば、常に地球との関係を入れるか、入れないか統一すべきである。
 観測者Aの例で地球との関係を絶てば、動いているのは観測者Cのように磁石と観測者Aかもしれないということになるし、観測者Cの例を地球との関係において想像すれば、静止している銅線に対して磁石が動き観測者Cも動いていることによって得られる電流発生の原因は観測者AとBを足した複雑な説明となるだろう。このことからも何が動いていて、何が静止しているのか?またそれによって得られる事柄がいかに意味のないものかがわかる。
 そして「観測者は、いかなる観測物に対しても、それが静止しているのか否かを断定することはできない」ということは、観測者自身が静止しているがどうかも知ることができないということである。


 以上のことはすでにアインシュタインが特殊相対性理論の論文の中で絶対静止という概念を否定し、これに変わって相対性原理を取り入れることで解決している。また当時求められていた絶対静止空間の不必要性、それによって光エーテルという概念の不必要性を解いてる。
 しかしなぜ絶対静止という概念が間違っているのかは、私が知る限りでは書かれていない。ここでの考察はそれを明らかにしようと思って書いたもので、結論を言えば私たち観測者は絶対静止しているものを知るすべがないからである。昔の人は絶対静止空間に対しての地球の速度を測ろうとしたらしいけど、全て失敗したのは当然のことだと、この結論が教えてくれる。

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