感覚と記憶されたものとの不一致による間違い       目次

 ・・・・・いつまでたっても誰にも公平な判断など下せない。(本文中より)・・・・・



「感覚と記憶されたものとの不一致による間違い」これはいわゆる思い違いのことである。この思い違いは感覚と記憶のどちらに原因があるのか?
「モモ(桃)のようなリンゴを見てモモ(桃)だと思った」場合を例に取って考えてみる。

まず記憶の方から考察してみよう。リンゴをあらゆる方面「味、匂い、形、色」で記憶していても「リンゴ」はどれも同じではない。百個あれば百個の違ったリンゴがある。いま世の中にあるリンゴ、いままでのリンゴ、これから作られるリンゴの全データを記憶できるはずはなく、従って見るリンゴはいつも違うリンゴだということになる。このことから記憶のほうに原因があるとはいえない。
ではリンゴそのものを記憶してないとしたら、一体何を私たちは記憶しているのだろうか?それは自分が今まで見たり、聞いたり、食べたりした経験によって得たリンゴに対する「なにか」を記憶として持っているのである。ひとくちにリンゴを知っているといっても、この経験により差がでてくる。この差がリンゴについてかなり詳しいとか、あまり知らないといった違いになる。が、この「差」「違い」とは決して優劣ではない。これについてはもう少し後で述べる。

 記憶の方による間違いの原因を探ってみても、記憶となっているのは各自のそれまでの経験によって生まれたリンゴに対する「なにか」であって、接してきたリンゴそのもではない。リンゴはすべて違う。 従って「リンゴを知っているにもかかわらずリンゴを間違えた」=「知っているのに知らないことになる」ということにはならない。
 間違った先のモモに関しても同じことが言える。モモといっても全部同じなわけではないから単純に「モモではないものをモモだと思った」ことは「所有している知識の中から違ったものを所持した」ということにはなはならない。また「知っているA(リンゴ)を知っているB(モモ)と間違えた」とも言えない。なぜなら「知っている」ことに限界があるから。
だからこれは「知っているAに似たA`を知っているBに似たB`と間違えた」と言い表すべきだろう。この似たA`B`というものは「知っている」「知らない」という言葉だけでは言い表せないものである。似てはいるが同じではないことから違うものとすることはできる。つまり知らないということになる。が、それだからといって「知らないA`を知らないB`と間違えた」と言い表すのは間違いである。間違えたかどうかは後で確認されることである。より近づいたり、匂いを嗅いだり、食べたりした結果であり、モモだと思った時点より後のこと。だから間違いとわかるまでは「知らないB`」は「知っているBに似ている」となることから「知らないA`は知っているBに似たものだった」となる。これを他の言葉で言い表すと「Bの一種のB`と間違えた」となる。この一種という言葉を説明するとこれがモモであるといえる一個体のイメージで人は頭の中にモモを記憶しているのではなく、モモというものに対する「なにか」を持っているのである。人はその「なにか」をもとにしてモモという判断(推測)をしている。色は変だが形がそれらしい。形も変だが匂いはそれらしい。匂いも変だが味はそれらしい。これらやこれら以外の要素を全部ひっくるめた(含めた)ものが「それの一種」(モモに含まれるもの)である。

 さて、これらによってなされた間違いは、感覚にかかわる情報が少ない為に起こる間違いである。では間違いがわかった後のことを考えてみよう。近寄る、触る、またはその他の新しい判断材料によって、それは「桃の一種」ではなく「リンゴの一種」と判定された。そのとき初めてモモと判断したのは間違だったとわかる。この「判断」というのは「モモ」とか「リンゴ」だとかを認識するためのものではなく、そこにある「或るもの」が何であるかを知るためである。その結果が「モモ」や「リンゴ」だったのである。だから「所有している知識から感覚と不一致な知識を所持した」というプラトンの形容の仕方は間違っているといえる(これはプラトン著書『テアイテトス』の一部分)。
 所有している知識からある知識を選び所持し、それを感覚と照らし合わせるのではなくて、感覚から得た情報で推測した結果のものが、所有している知識の中の一つと一致したわけである。この場合間違った原因は内からではなく外からである。例えると弓矢と的の関係。判断材料により弓矢の角度と方向と引く強さが決まり(この決まった時点が、ひとつの推測を得た時点である)、弓を放つ。的はそれに合わせて動くことはない。そこにはあらかじめいろんな記憶が書かれていて、矢はその中の一つに刺さる。刺さったところにリンゴと書いてあるなら「リンゴ」、モモなら「モモ」と判断される(思う)わけである。


次にもう一人別の人がそれを見ていたとしよう。前の間違った人をXさんとし、この人をYさんとする。YさんはXさんとはまた違う「モモ」や「リンゴ」に対する「なにか」を持っていて、その結果最初からそれはリンゴであると主張した。この場合XさんYさん二人にとってどちらが正しくて、どちらが間違っているのかどうやって判断できるのだろうか?もちろん近寄るとか、触るなどの新しい判断材料なしで。
 二人とも自分が正しいと主張するのは想像に難くない。どちらも実際そう判断したのだから。ここに弟三者のZさんを加えてみよう。Zさんもまた自分の「モモ」や「リンゴ」に対する「なにか」を持っているからそれにより判断し、二人の内のどちらかと判断結果が合えばそちらを支持し、どちらとも違えば自分の判断を支持するだろう。第四、第五番目の人が加わったところで同じことで、いつまでたっても誰にも公平な判断など下せない。
つまり、ある人が自分自信で間違っていると認めない限り、他の人が間違っているということをいくらその人に主張したところで、その間違いを明らかにしてみせることはできない。他人にできることは間違っているんじゃないかと疑問を投げかけることくらいである。

 「そんなばかな」と思う人がいるだろう。このような場合私たちは、多くの人が一致する判断の方を正しいとするだろうし、してきた。だけど多くの人が一致する側が本当に正しいとは誰にも公平に判断を下すことはできない。つまり誰にも正否はわからない。これで自分が正しくて相手が間違っていると鼻息を荒くしている人の愚かしさがわかるというものだろう。もちろん私もこのようなときがある。こういうとき人は、自分の判断の上に自尊心を乗せている場合が多い。冷静に考えてみれば、これはまったく無意味だということがわかるのだが・・・。

 またこのような例もある。親が子どものためを思い、みすみす失敗するのを見逃すことができずにその判断を正そう(変えよう)とする場合である。しかし、相手に相手が間違っていることを証明するためには、どのように、どんなふうにして間違っているのかを、相手をして「間違っていた」と思わせるところを終着点として導かない限り不可能である。そしてこれはご存じのように簡単ではない。相手の「思考経路」や「なにか」がわからないからそれを推測しながらやらなくてはならない。でもこのようなときでさえも、親の判断が必ずしも正しいなど誰にもわからない。そこのところを親が認識していないと単なる思考の押しつけでしかない。




 私たちはよく各人の「判断」に優劣をつけるときがある。これについて少し考えてみよう。
 「ものの尺度は人間である」とプロタゴラスという古代ギリシャ人は言っている。私はこの説を「それぞれの人にとって、ものの尺度はそれぞれの人である」とこう言い直したい。
 誰もが自分にとっての認識者になれるという意味だ。否、誰もが自分にとって自分しか認識者になり得ないという意味の方が適切だろう。
 例えば誰かが「あのリンゴはすごく赤い」と言ったとする。この場合「すごく赤い」という尺度はひとによって違う。もっと赤いリンゴを多く見てきた者にとってはそれは「まあまあ赤い」ということになる。だからといって「すごく赤い」と言った人の思いなし(判断)がその人にとって虚偽(間違い)であることにはならないだろう。ではなぜ専門家と呼ばれる人がいて、多くの人はそれに従うのか?それは経験の度合いによっている。リンゴを栽培している人の方がそうでない人よりリンゴに関する経験が豊富だと言える。リンゴに関する商売をしている人の方がそうでない人よりリンゴに関する経験が豊富と言える。百万個のリンゴを食べた人の方が十個食べた人よりリンゴに関する経験が豊富と言えるだろう。人はこの「経験が豊富」な人に従うのである。が、それは「栽培」とか「商売」という「リンゴに関すること」についてである。これはリンゴだけに関することではなく、「栽培」「商売」といったものに対する別の尺度が入ってくる。

 ところで十個しか食べたことのない人も、やはり十個食べた上で「リンゴ」というものに対する「なにか」を持っている。それがどんなものか他人が正確に把握することはできない。その人が言葉か何かでそれを表現したときに初めて他人はその一部分を知ることができるわけだが、その表現されたものも、頭の中にある「なにか」を正確に表現し得ているわけではない。つまり誰かの「なにか」をあるがままに他人が把握することはできない・・・。にもかかわらず人はその「なにか」を別な形で表現したもので比べている。こっちの人の「なにか」よりそっちの人の「なにか」の方が、そっちの人の「なにか」よりあっちの人の「なにか」の方が優れているだとか劣っているだとか比べるわけである。ここに「優劣」が生まれる。しかし経験が少ないからといってそこから生じる「なにか」の質が劣ることにはならない。何を基準に、誰が公平に優劣を決めれるというのだろう?各個人は各個人の優劣に対する「なにか」をもそれぞれ別に持っているのである。だから各個人の中に優劣が生じるそのことさえも、それは各個人の「思いなし(判断)」である。
 他人が「あなたのその優劣の決め方はおかしい」といったところで、その「あなた」にとっては他人の意見を受け入れるまで自分の思いなしはおかしいとは思わないだろう。そして他人の意見を受け入れるまさにその時、その人は今度は他人の意見と同じものを「思いなす」のである。どこまでいっても人は「自分の思いなす」ことしか「思う」ことはできない。これは言葉遊びではない。つまり「ものの尺度」とは、あるものが持っているなにかが、そのあるものに対して人が持つであろう「なにか」になるための法である。
 
リンゴを例にとって説明すると、「リンゴ」という思いなす材料がある、それを「ものの尺度」によって思いなされ、「リンゴ」に対する「なにか」を持つに至る。この「ものの尺度」は当然個人の中でも変わり得るものだ。

その「ものの尺度」を引っ張り出し、他のそれと比べ、片方がもう片方に比べて劣っているだとか優れているだとかいうのもおかしければ、その劣っている方を間違いだとするのはさらにおかしい。前の「なにか」についての考察と同じである。それを正確に把握もできなければ、比べることは誰にもできない。

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