存在について            
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・・・人は言葉を作ることにより頭の中に生じた「よるところのもの」を「思い出す」のではない方の感覚、「思いなし」で見ることも聞くことも触れることも、その他の感覚も可能である・・・(本文中より)



私達が何かの存在の有無について確認するときは、いわゆる五官に頼る。が、五官からくる情報を五感にし得るものは脳である。情報が入ってきても、脳がそれを感覚しなければ私達はそこにある何らかの存在を確認することはできない。(4章「感覚とは」より)そして脳が感覚したものは五官を閉ざした後でも感覚し直すことができる。
 このように或る感覚を感覚し直すことを「思い出す」とし、これに対して五官から入ってくる情報を進行形で感覚していることを「思いなす」と表現する。このふたつに共通することは、どちらも脳が「感覚する」ということ。そしてふたつの大きな違いは、思い出す方は五官を閉ざしていて、思いなしている方は五官を開いて感覚している点である。

ある言葉を思い出しているということは、その言葉の文字を思い出す場合もあるだろうし、その言葉の対象となっているものを思い出している場合もある。もちろんその両方を思い出すこともある。その「対象となっているもの」というものを私は別の考察文(2章「言葉について」)で「よるところのもの」と言い表した。便宜上ここでもこの表現を使う。
 この「よるところのもの」とは「実在するか否か」ということとは関係なく生じ得ると考察した。だから例えばなにか絵本で見た「竜」の「よるところのもの」を思い出すのも、以前食べた「ミカン」を思い出すのも、「思い出す」という質の上では同じである。つまりここでの「感覚」では存在の有無の確認はできないということである。
 
これの意味するところは、「ミカンは実際に食べたのだから存在したものであり、竜は実際に見たことがないから存在するかどうかはわからない」と言うことはできないということである。ミカンも竜も思い出している時点では同じ扱いとなり、ミカンの方だけが存在したと明らかにすることはできない。では「思い出す」方じゃない感覚「思いなす」の方を考えてみる。

 「思いなす」方の感覚で存在の有無が確認できるとしても、その前に私たちはどちらの「感覚」をしているのかが私たち自身でわかっていなければらない。これがわからなければ存在の有無の確認ができているのかどうか知ることはできない。だからこの違いがわかる必要がある。
 ふたつの「感覚」の違いは五官を閉ざしているか、否かだった。しかしこの「五官を閉ざす」というのはどういう意味だろうか?例えば視覚の場合、目隠しをすれば何も見えなくなる。この「何も見えない」という状態がそれだろうか?目をつむっていてもそこになんらかの光を感知しているかぎり、目という器官は閉ざされていない。しかしここでは感覚しようとするものの情報を五官から取り入れないことで十分「五感を閉ざす」という条件を満たしていることにする。さてこの「情報」を五官から取り入れているか、いないかを脳が把握してなければならないわけだけれども、はたしてこれが可能かどうか?

 私たちは夢を見ます。夢の中でいろんなものを見たり、聞いたり、食べたり、感じたりしているが、決してそれらを思い出しているとは思っていない。(つまり夢の中では五官は開かれていると思っている)これは寝ている時の話であって目が覚めている時は違うのか?ここで私の実体験を差し入れます。。
 子供だった頃に一人で電車に乗っていて、ぼうっと窓の外を見ていたときに、突然音楽が聞こえてきた。誰かラジカセを電車の中に持ち込んでいるのだと思い、辺りを見回した。しかしその途端に音楽は止んだ。気のせいだったのかと思い窓の外を再び見ていると、また音楽が聞こえてきた。そういうことはその時が初めてであり、それ以降2、3年間頻繁にあった。これはいわゆる曲を思い出しているのとは違う。なぜかと言えば、音楽が聞こえてる間に私は自分の意志で別の曲を頭の中に流す(思い出す)ことができたし、鼻歌も歌えた。最初の頃は音楽が聞こえ出すと、自分の意志で中断することもままならなかった。何か考えているときにも、勝手に流れていたりもした。まさにそれは外から聞こえていると感じるものだった。
 それが自分の頭の中だけに流れていると気付いたのは、あるとき壊れたレコードのように同じフレーズを繰り返しているのに気がついた時だった。その先が気になり思い出そうとするが思い出せず、同じように同じところで繰り返すだけだった。つまり自分がその曲をはっきり覚えていないために記憶しているところまでしか流れていなかったのである。それに気がつき、音楽は自分の頭が再生していることがわかってからは、自分の意志でそれを行うようになった。それはこんなふうに行った。

 まず曲を指定するために曲の始まりだけをイメージする(思い出す)。そしてうまく曲が聞こえ出すと、後は放っておいても続きが聞こえる(聞ける)というわけである。ちなみにそれがどんな感じだったかを説明すれば、初めは耳鳴りのような音がある瞬間突然音楽に変わる。音はヴォーカルはもちろん他の楽器すべてを含んだ音だった。なかなか便利な頭の中のレコードだったが、それができたのは2、3年の間だけである。だんだんと曲の始まりをイメージしてから曲が聞こえ出すのに時間がかかるようになり、同時にそれに要する集中力もだんだん必要になってきた。五回に一回、十回に一回と成功する率が少なくなり、しまいには集中力切れでギブアップしてしまった。ちょうどその頃、それとは別の不思議な体験をしている。

 銭湯からの帰りの暗い夜道、私の足音と同じ足音が後ろでする。すぐに振り向くが誰もいない。その足音は家の中まで続いた。別の例ではある日夜中に目が覚めると、いままで聞いたことのないような音が聞こえてくる。感じとしては水が一滴一滴「ポチャン、ポチャン」と落ちる音に近く、それをもっと高音にして響き渡らせたような音。その音はだんだん私に近づいてきて、私の周りを半周すると今度は遠ざかっていく。いつも右から近づいてきて、足の方を回り左へ遠ざかっていく。これが一カ月間毎日続いた。他にも沢山あり、例を挙げればきりがない。
 私はこれらの体験により幽霊を信じていた。他にこれらの現象を説明することができなかったためだ。いま思えば何故これらの現象と、音楽が聞こえる現象とを別べつに考えていたのか不思議である。いまは私はこれらのことを以下のように推測する。
 音楽はあきらかに自分の頭の中で再生されていた。そう言える理由は自分の意志でそれを行なえるようになったことから。あの複雑な音を再現できるのだから足音などは簡単に再現できるだろう。つまり私の足音の真似をしていたのは他でもない私の脳だったと推測する。そして今までに聞いたことのない音の例だが、あれは脳がそれまでに聞いた音を使って合成したものだと思っている。例えば前に挙げた水の音の他に「火の用心」といいながら叩く木の音なども合成に使われた音の一つだと思っている。そんなことが可能か?私は強くその可能性を主張する。その理由は「夢」の中にある。
 私たちは「夢」について重大なことを見落している。そして理由はそこにある。それは私達の脳の再現能力である。


 私たちは夢の中でいろんなものを見る。いろんな音を聞く。泳いでる時は水の抵抗を感じ、落ちている時は空気の抵抗を感じる。暑さや、冷たさも感じれば、料理の味も感じる。そればかりではなく、私たちが経験したことのないストーリーがそこでは展開されていく。見たことのないものを見せてくれるし、知らないものも教えてくれる。これらの感覚の情報源は五官からではなく、記憶からである。すべて「思い出す」方の感覚である。しかし夢の中の自分は「思いなし」の方の感覚をしていると思っている。このような脳の働きについては別なところで考察しようと思っているので(11章「脳について」)、ここではあまり深入りしない。この考察文のテーマは「存在について」だからそれに関することを取り上げようと思うのだが、この「存在」と「脳の働き」は切っても切れない関係らしい。
 ここでもう一つ私の経験からくる推測を述べたい。私は音楽を聞くと同時に、それとは別の音楽を思い出すことが出来た。聞いている音楽も思い出している音楽も共にわたしの記憶の中から引っ張り出したものである。それぞれの音楽を感覚しているわけだが、それは同時に行われている。一方は思い出しているとわかっているが、もう一方は「思いなす」感覚と区別がつかない。そして違う音楽をふたつ同時に思い出すことはできない。これらのことから次のように推測できる。
1、記憶から情報を引き出す経路は一つではない。
2、脳は感覚器官から入ってきた情報を捕らえ、それを処理し感覚するわけだが、この「情報を捕らえる」前の段階まで「記憶から引き出した情報」はヒィードバックされていると考えられる。私の不思議な体験は後ろで聞こえたり、右から来て左へ遠ざかっていったわけだから(そう感覚したわけだから)、感覚される情報源がどこから来たのか分からないところで混合していると考えられる。
3、「思い出す」ときの「感覚」は、もう一つの「感覚」とは別のところで行われている。でなければ同時に違う音楽を「感覚」できなかったろう。

 以上の事を夢の例と合わせて考えてみる。私が「夢」において重大と言ったのは、もし私たちが眠っていない時に脳があの再現能力をフル活動したら、私たちは混乱の中で一生を終えることになると簡単に推測できるからである。私が経験したものはこの再現能力のほんの一部であるが、それは生活をある程度乱した。これが夢と同じように再現能力を発揮されたらたいへんなことになる。だからこれらの能力は、眠っていない時には抑える(制御する)必要がある。俗に言う精神異常者や覚醒剤などの使用による「幻覚」「幻聴」はこの制御がうまく行われないためによるものではないだろうか?覚醒剤などはこの制御を妨げる作用があるのだろう。私は覚醒剤の類を経験したことがないので、これらについての観察および考察はできない。
 それにしても聞きたい時に「幻聴」を聞くことができたということは興味深い。これはコントロールが可能だということを意味している。これが可能になったのは音は外から聞こえているのではなく、頭の中から聞こえているのだと気付いてからである。これも実に興味深い。これについて考察を進めれば幻覚、幻聴に悩んでる人を助けることができるなにかが見つかるかもしれない。しかし今は放って置く。(かなり遠回りになるからだ)

このような「幻覚」「幻聴」を経験したことのない人には、例えば「重いもの」という文字が上にのしかかってきて苦しいなどと言う人がいたら、「この人は頭がおかしい人だ」と思うだろうし、嘘を言っていると思うかもしれない。そんなマンガのような馬鹿げた事あるはずがないと思うからである。が、幻覚をしている人には事実それを見てる(感覚している)から、それが見えているのであり、重さを感覚しているからそれによって苦しいのである。
 多くの人にとっては幻覚者も自分達と同じように、自分自身の感覚でもってそれらを感覚していることが信じられない。だからもし、自分が幻覚、幻聴を経験すればそれは現実ではないと判断できると思っている。また、誰かが「私はいまあそこに幽霊を見ている」と言ったとすると、信じる人と信じない人とに別れる。そしてそう言った人は自分の視覚を信じてやまない。自分ももしかしたら例の幻覚者と同じで、幻覚を見ているかもしれないと考える人はほとんどいないだろう。
 幽霊を見ている人は言うだろう「あなたにはあれが見えないのですか?」と驚いて。しかし、この人も幻覚者も自分の感覚しているものの情報がどこからきているのか知る術がない。このことはこの二人の言うことを信じずに、自分はまともだと思っている人にも言える。そしてもちろん、他人もそれを知ることはできない。これがいままでの考察によって導かれる一つの結論となる。
 そしてかの幻覚者の言うことには賛同せず、幽霊を見ている人に賛同する人。しかも本人はその幽霊を感覚してはいないのに・・・こういう人については矛盾しているといわざる得ない。一方は視覚だけの感覚で、他方は視覚と触覚の二つの感覚なのに、視覚だけの方を信じて他方を信じていないのだから・・・。これまでの考察で視覚だけとか、聴覚だけというものがいかに頼りないかがわかった。では、いくつの感覚に基ずけば頼りあるものになるのだろうか?

 夢の中で私は水を見て、水の中を泳ぎ、水の抵抗も冷たさも感じる。水の中の息苦しさも感じる。水は実際にそこに「有る」と断言していいのだろうか?海なら潮の匂いと波の音も感覚することができる。海の水はそこに[有る」と断言していいのだろうか?突然私は夢から覚めた。そしていままでのは夢だったと気付く。そして今度こそは現実だと思っている世界で海へ行くわけだが、ここでは夢の中の感覚に加えて服が濡れた重さと、その感触を感覚した。これで確かに海の水は「有る」と断言していいのだろうか?夢から覚めたと思ったらそれも夢であり、その夢から覚めたとき、それも夢だったという経験をしたことがないだろうか?ここでは「荘周が蝶の夢を見たのか蝶が荘周の夢を見たのか」ということを言うつもりはない。夢か夢ではないかの区別は私自身では連続性か否かで判断できると思っている。寝る前と起きた時と同じ場所に居るとか、寝る前に飲んだビールの缶が起きた時にもそこにあるといったことを総合して判断してゆく。そのためには前の事を記憶してあるということが必要になる。それはともかくとして夢から覚めるまで夢の中にあって夢と気がつかない場合、感覚している者にとってはそこは起きているときと同じ現実の世界である。しかし上の考察のようにどれだけたくさんの感覚をしていても、感覚の対象となっている「あるもの」が実際に有ると断言することはできない。同じように眠りから覚めた世界でも事情はかわらない。
 私達は五感を駆使して諸存在の有無を認識していることには変わりはないが、それの意味するところはあくまでも「推測」なのである。私達に出来るのは推測であって、決して断定ではない「重いもの」という文字が見えないことにより、推測の下にそういうものは「ない」と判断を下しているのだけなのだが、「ない」と断定できると勘違いしている。

 以上の事をもう一度繰り返しながらまとめると「幽霊」を見ている者も、見ていない者もその「見る」という「感覚」の情報源が外からきたのか、自分の中からきたのか区別できない。よって自分の見ているものが本当にそこに存在するのか、自分の頭の中だけにそうあるのか本人にも他人にも判別できない。他人と言葉などによって、感覚が「どのように違う」かを比べることはできるが、どちらがより「本当らしいか」とか、どちらが「真か」などと比べることはできない。
 私は自分の変わった経験から次のようなことは、人間の脳の能力を考えれば十分可能だと判断する。それは、人は言葉を作ることにより頭の中に生じた「よるところのもの」を「思い出す」のではない方の感覚「思いなし」で見ることも聞くことも触れることも、その他の感覚も可能であるということだ「神を見た」と言う人は「神」を視覚したのであり、誰もそれについての真偽を決定することはできない。しかしそれと「神の存在の有無」とは関係がない。「幽霊」はその存在を明らかにすることも消滅することもなく、いつまでも人間のそばに居続けることとなるのである。

存在についての考察だったが、私たちには何かの存在の有無を確認することはできず、できるのは諸存在の有無の推測であるという結論で、存在についての一回目の考察を終わりにする。

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