意識について     戻る

ここには、空想の扉の『意識について』とは別の内容が書かれています。
ここでは、空想の扉内での考察で得られたものや、それ以外の考察で得たものを総合して、意識というものがどういうものかを示すものです。
最終章『この世界とは』に追加するかもしれません。


『バーチャル体験』という言葉を聴いたことがあると思いますが、私たちが見ているもの、聞いているもの、触っているもの・・・全ては脳に刺激を与えることによって生まれます。言い換えれば、私たちは常に脳が作り出すバーチャルな世界の中で生きています。
これはSFの世界の話ではなくて、普段の私たちの事を言っています。

視覚を例にとって考えてみましょう。
目という器官は光を感知します。そしてそこから得られた情報は、神経細胞を伝って脳に伝達されます。
では、この神経細胞を情報が伝っているとき、映像のまま伝わっているのでしょうか?
それらの情報は、別のデータに変換されています。そしてその変換されたデータを基に脳内で再び映像にしているわけです。
つまり、テレビと同じです。
カメラで捕らえた映像は、一度電波に変えられ、ブラウン管もしくは液晶などで再び映像にされているのと同じです。
いま、私やあなたが見ているものは、私やあなたの脳によって再構築された映像です。
そしてこのことは、視覚だけでなく他の感覚すべてに同じことが言えます。

いま目の前に家があり、あなたはドアのノブを回して開け、家の中に入ったとしましょう。
それら一連の動作は視覚や触覚、聴覚などを使って行われます。
が、ここで先ほどの考察を思い出してください。これらの感覚は全て脳が再構築したものです。
ドアノブを触って回したとしても、本当のドアノブそのものを見ているわけではないですし、本当のドアノブそのものを触っていると確かめようがありません。あくまでも、感覚を元に触って回していると推測し、一歩前に出て家の中に入っていくのです。
その家の中に入ったということも、やはり脳内で再構築された映像を見てそう判断しているのです。
言い換えると、私たちは常に脳が作り出している仮定空間の中で動き回っているということになります。

この仮定空間は言うまでもなく五感からの情報によって構築されています。五感とはこの仮定空間を構築するためにあるのです。

大きな交差点が青になり、私たちはお互いにぶつかり合うことなくうまく人をかわして歩くことができます。
この『うまく歩く』=『うまく行動する』ためにはできるだけ正確に空間を脳で再現しなければなりません。
付け足しますが、この仮定空間は脳が勝手に作るものではありません。それはブラウン管テレビや液晶テレビ自体が新しい映像を作り出さないことと同じです。

しかしコンピューターで映像や音を合成して、それまでにない新しいものを作るということは脳も行っています。
それが夢や幻覚などです。(これについては第11章『脳についてー夢とはー』で)
そのために記憶が必要となることはコンピューターと同じです。

さて、ここまでは『仮定空間』について書きましたが、この仮定空間を脳で作り出すだけでは私たちは仮定空間内で動き回ることはできません。
この仮定空間を見るものが必要になります。
これが私の考えでは、私たちが『意識』と呼んでいるものです。

仮定空間と意識の関係はテレビとそのテレビを見ている人のような関係です。
しかしこの場合、テレビを見ている人はテレビから目をそらすことも目を閉じることもできません。
テレビがついている限りそこに映る映像を見続けなければいけないのです。
より近いニュアンスで言えば、見ている人はテレビとは別に独立した体を持っているのではなく、映像が映っているテレビ自体です。
さらに付け加えれば、体などはないのです。・・・これが意識と呼ばれているものです。

テレビが消えると、この「テレビを見る人」も消えます。
死んだとき意外にこの状態になるのが、意識をなくした状態です。
そしてこれは寝ているときの状態でもあります。
 空創の扉第11章「脳についてー夢とはー」で、私は寝るという行為の目的はこの意識を消すということだと推測しました。
その理由は仮定空間の構築及びこの意識はかなり脳に負担をかけるものであり、その活動で使われている部分を休めるためだと推測しました。
「寝ていても夢を見ているではないか?」と思う人もいるでしょう。
が、私は夢を見ている状態と睡眠状態は別だと考えています。そして夢を見ている状態は睡眠状態と覚醒状態、相互に変化する際に起こる状態だと考えています。これについては第12章『脳についてU−幻覚ー』で詳しく考察しています。

意識をなくすには仮定空間を消すしかなく、上に述べたように合成した仮定空間を見ている状態、つまり夢を見ている状態では意識はなくなっていません。
(この部分は第11章「脳についてー夢とはー」でも明らかにしていない部分です)
寝るという行為は意識をなくすという行為で、起きるという行為は意識を取り戻すという行為です。
眠りに落ちるという表現と、柔道などの閉め技で落とすという表現が示している内容は一緒です。


意識の役割は仮定空間を見るというだけではなく、それは動くために選択をするという重要な役割を持っています。
選択をするために見ているといってもいいでしょう。
 右に行くか左に行くか? 前に進むか後ろに下がるか?早く歩くかゆっくり歩くか?・・・手に取るか、吐き出すか?近寄るか、逃げるか? 私たちが仮定空間の情報を基に動作を行う場合は事前に意識による選択がなされています。
意識によらない動作を反射といいます。これは単細胞生物や植物にもみられるもので、動物に限ったものではありませんが、これは必ずしも仮定空間を必要としません。

動物と呼ばれている生き物(自分で獲物を求めて捕らえ、餌にする生き物)はすべて仮定空間を脳で作り出し、その中で動き回っていると考えられます。
よって、それらの生き物はすべて意識と自我があると推測できます。(これは考察文『意識と自我について』では明らかになっていなかったものです)
なぜなら、仮定空間内で動くためには意識の他にもうひとつ、動くために基準(中心)となるものが必要だからです。
それが『自我』と呼ばれているものです。

「私に対してどれぐらい離れているか?」「私に対してどういう角度か?」「私に対してどれぐらいの速さか?」
右や左、上下、前後・・・すべて私という基準を基に生まれる概念です。これがあってはじめて人にぶつからずに歩くことができます。
このようなことを把握して動物は脳の中に作られる仮定空間内で動いているのです。

このような意識や自我を「魂」という概念で捉えようとしている人がたくさんいますが、これまでの考察が正しければ、意識は五感の情報を基に作られた仮定空間と同時に作られ、その五感は五官によっています。
そしてその五官は他でもない生命体に付随するものであり、よってその生命体にしかその意識と自我は生じ得ないという結論になります。
つまり、いま私が感じている意識や自我は、わたしの体にしか生じずに、他の生命体では生じ得なかったものです。(これについは考察文「己とは ー心ー」でより詳しく考察してます)

この「意識」と「自我」は共に仮定空間内で動くために必要なものであり、表裏一体のものだと考えられます。
どちらが欠けてもダメですし、共に同じ仮定空間を対象にしていないと意味がありません。
つまり、共に同一の生命体に発生します。


以上のように、私たちが見ているもの、聞いているもの、感覚しているものは全て脳が再現したものです。
そして脳はさらに、記憶を基に感覚を合成することもできます。
どちらの場合でも脳で感覚したものならば、それは私たちにとって全て「リアルなもの」となるのです。

やっかいなことに、感覚している当の本人には、どちらの場合か知ることが非常に困難です。
つまり、その感覚が五官からの情報に基づくのか、記憶の情報に基づくのか簡単には区別できないということです。(第9章「存在について」より)

一方で、もし人が自分の脳が作り出す仮定空間を疑いだせば、全く行動できなくなります。それだと生活できません。
だから必然的に自分の見ているもの、聞いているもの、その他感覚しているものを信用します。
このことが人の過信を生み、その過信が錯覚を錯覚と気づかせないのです。

修行で苦行などを行うといろんな変わった現象に出くわすと聞いたことがあります。
神や仏に出会う人、死者が動くのを見た人、または生き返るのを見た人、それらに触れたり会話をした・・・ets
そういう人たちは自分の感覚を全く疑っていない結果、「それらを見た、聞いた・・・だからそれらは本物だ」と言い切ることができるのです。
これを書いている私自身、このことを証明することはできません。これは推測に過ぎません。
が、神と会話をしたいう人が「神は必ずいる」と言うのもやはり推測の域を出ることはなく、確率で言えば私の場合と同じです。
つまり正か否かの50%づつです。

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